超期待した『シン・エヴァ』にモヤモヤした「3つの理由」

『夏エヴァ』の時点で青春は終わっていた
飯田 一史 プロフィール

すでに通ってきた道を確認されただけだった

『シン・』ではかつて子どもだった存在が家庭を持って親になり、地域の要職に就き、後進育成に努めている様子が描かれ、大災害のあとでも人々は働き、日々を営んでいくさまが描かれる。あるいは親子の相剋ではなく、宥和が描かれる。

かつて97年公開の夏エヴァで観客に対して、虚構に耽溺していないで「現実に帰れ」と言った庵野監督が、地に足を付けて生活している人たちを肯定的に描くことは一貫しているとは思うが、意外性はない。

そしてそうした生活の風景は、かつて14歳で『エヴァ』を観て、今39歳になって5歳の子どものいる私にとっては「すでに現実で通り過ぎたもの、経験したこと」に思えた。

これが乗れなかった理由のみっつめである(くわえて、「若い世代に向けて作る」はずだった新劇場版が中年ホイホイ的な内容に帰着しているように見えた点も疑問だ)。

当時「現実に帰れ」と言われたことを真に受けて、適度にフィクションや社会と折り合いを付け、他者に「気持ち悪い」と拒絶されることも織り込み済みのものとして生きてきたならば、それは『シン・』で描かれたような「大人」になっているだろう。

だからこそ『シン・』で描かれる「生活」や「大人」の姿には「そういうものはもうわかっている」と感じて乗れないところがある。そこにも既視感がある。

だからやはり、『エヴァンゲリオン』は1997年公開の夏エヴァの時点で終わっていた。

少なくとも自分にとってはそうだったのだと『シン・エヴァンゲリオン』を観て思った。

新劇場版完結をもって「自分の青春が終わった」と言っている同世代の人間が私の周囲にも複数いるが、私にとっては、夏エヴァの時点で青春は終わっていた。それを改めて確認するまでに、2007年の『序』公開から14年かかっただけだった。

 

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