「酒池肉林」の暴君はなぜ討たれたのか? 古代中国史の史実に迫る

甲骨文から読み解く、殷王朝の戦争
佐藤 信弥 プロフィール

牧誓では、牧野の戦いは甲子の日の朝に始まったとされている。殷周の戦いが確かに甲子の日の朝に始まったことは、陝西省西安市の臨潼区より出土した青銅器利簋(集成4131)の銘文によって事実であると確認された。

珷(武王)商を征す。隹れ甲子の朝に歳し、貞いに克ちて泯し、夙に商を有す。辛未、王、管師に在り、右史利に金を賜う。用て公の宝尊彝を作る。

(武王が商を征した。甲子の日の朝に会戦し、大いに[敵軍を]破り、すみやかに商を占領した。[七日後の]辛未の日に、王は管の駐屯地にあり、右史の利に銅を賜った。[利は]それによって[祖先の] 公を祀るための銅器を作った)

この銘文は甲子の日に武王が商すなわち殷を征伐し、その七日後の辛未の日に軍の駐屯地で利という人物が王より褒賞として銅(原文には「金」とあるが、これは銅のことを示す)を賜ったことを記す。原文中の冒頭から「夙に商を有す」の部分までの解釈については諸説あるが、ここでは中国の古文字学研究者湯志彪の解釈に沿って読んだ。

 

この解釈によれば、殷周の戦いは甲子の日の早朝に始まり、その日のうちに決着がついて、周がすみやかに商(おそらくは都邑の大邑商を指す)を占領したということになる。一体何が殷と周双方の命運を分けたのだろうか

戦車が勝敗を分けた?

『詩経』大雅・大明には「牧野洋洋たり、檀車煌煌たり、駟騵彭彭たり」(牧野の地は広大で、戦車はきらめき、四頭立ての赤毛の馬は強壮である)と、牧野の戦いの際の周側の車馬を褒め称える描写があるが、この戦車が勝敗の鍵となったとする説がある。

本書で先に触れたように、殷代においては軍隊の主力は歩兵であり、殷代後期に至ってようやく戦車が戦闘に用いられるようになったとされる。また馬の管理や利用は、草原地帯との交通で地の利のある殷墟を拠点とした殷王朝が独占していたのではないかということであった。

アメリカの著名な中国古代史研究者ショーネシーは、周が草原地帯と接近する西北地方に拠点を置いていたことにより、早い時期から戦車を用いた車戦に習熟しており、車戦の戦法が殷より勝っていたことが、周の武王が牧野の戦いで殷を破った原因のひとつではないかと指摘している。

殷末の周の拠点は、現在の陝西省岐山県・扶風県一帯の周原遺跡かその周辺とされており、殷墟より西方に位置している。周原は現在の西安、昔の長安の近辺にあたるが、長安がシルクロードの中国側の起点となったように、草原地帯との交通という点で殷より更に有利である。

本書での戦車に関する議論とつなげると、周は草原地帯への地の利により、馬の管理や利用に関して殷王朝の独占を崩すことができ、かつ殷より積極的に戦場で車馬を活用できたということになろう。

牧野の戦いの年代は、中国の初期王朝年代研究プロジェクト「夏商周断代工程」では前1046年とされる。この年代については様々な異論が提示されているが、近年の論調では前11世紀の後半とする点ではおおむね一致を見ている。

牧野の戦いの勝利をもって周王朝が成立したわけであるが、これは殷が完全に滅亡したことを意味していたわけではなかった。本書第二章ではその様子から見ていくことにしよう。

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