「酒池肉林」の暴君はなぜ討たれたのか? 古代中国史の史実に迫る

甲骨文から読み解く、殷王朝の戦争
佐藤 信弥 プロフィール

「克殷」前夜

それではその周による殷王朝の打倒、すなわち克殷について見ていくことにしよう。

甲骨文において、周は「周方」と称され、方や土方と同じような方国のひとつであった。その君主は「周侯」と呼ばれ、殷王朝からは諸侯として扱われていた。その一方で殷の征伐の対象となることもあったわけだが、これは殷と敵対した後に服属したと見られる。そして殷王の妃として、周の出身と思しき「婦周」という名前が見え、殷と周は通婚の関係にあったようである

 

その周がどのような事情で殷と対立するに至ったかは、甲骨文・金文のような同時代史料からはよくわからない。後代の文献をひもとくと、古本『竹書紀年』には、殷王の文丁が周の文王の父親にあたる季歴を殺したとある。

『史記』殷本紀及び周本紀によると、その文王は九侯・鄂侯とともに暴君として知られる紂王に三公として仕えていた。しかし文王以外の二人は紂王によって殺害され、九侯の遺体は醢(塩づけ)に、鄂侯は脯(ほし肉)にされてしまった。文王がこれを憂えて嘆息したところ、崇侯虎という人物によって紂王に密告され、羑里に幽閉された。羑里は殷墟のあった安陽にほど近い河南省湯陰県の北に位置していたとされる。

こうした話には周が殷王による王権強化の犠牲となったことが反映されているのかもしれない

『史記』によると、その後周の臣下が紂王に贈賄を行ったことで文王は釈放され、諸侯の旗頭として西伯に任じられた。同時代の史料で周の君主が周方伯とされていたことを反映しているのだろう。以後文王は諸侯の信望を得るようになった。そして犬戎・密須(あるいは密)・耆(あるいは黎)・邘といった周辺の勢力や国々を討伐し、最後に崇侯虎を伐った。

牧野の戦い

文王が没するとその子の武王が父の業を継いだ。武王は自分に従う諸侯とともに黄河の渡し場の盟津(孟津とも)を渡り、牧野の地(現在の河南省新郷市牧野区)で殷との決戦に及んだ

牧野の戦いについては様々な文献に記述があるが、ここでは序章でも参照した『尚書』牧誓の記述を引いておこう(この部分はまた『史記』周本紀でも引用されている)。

時これ甲子の昧爽、王、朝に商の郊の牧野に至りて、乃ち誓う。王、左に黄鉞を杖つき、右に白旄を秉りて以て麾き、曰く、「逖きかな、西土の人」と。王曰く、「嗟、我が友邦の冢君、御事の司徒・司馬・司空、亜旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・盧・彭・濮の人よ。爾の戈を称げ、爾の干を比べ、爾の矛を立てよ、予其れ誓わん」と。

(甲子の日の明け方のこと、武王は早朝より殷の郊の牧野に至って誓った。王は左手に黄金で飾られた鉞をつき、右手に白い牛の尾の毛の飾りがついた旗をとり、将兵をさしまねいて言った。「遠方より大儀であった。西方の者たちよ」王は言った。「ああ、我が友好国の大君に、政務を司る司徒・司馬・司空、亜旅・師氏に、千夫長・百夫長、そして庸・蜀・羌・髳・微・盧・彭・濮の地の人々よ。汝の戈を挙げ、汝の盾を並べ、汝の矛を立てよ、私は誓いを立てよう」)

この場面では周と同様の立場の国君や司徒・司馬・司空をはじめとする諸官(この3つの官及び亜旅と師氏の官は西周金文にも見える)に加え、庸・蜀・羌・髳・微・盧・彭・濮の各地の人々も武王の呼びかけの対象となっている。この8つの勢力は西方あるいは南方に位置するとされている。

殷末周初の時期の周原甲骨文にも、南方の「楚」の君主と往来があったことを示す記述があり、また「蜀」「巣」といった勢力を征伐するという記述がある。また「黄鉞」「戈」「干」「矛」など、古代の主要な武具が登場している点にも注目されたい。

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