「酒池肉林」の暴君はなぜ討たれたのか? 古代中国史の史実に迫る

甲骨文から読み解く、殷王朝の戦争
佐藤 信弥 プロフィール

焚刑にされたり生贄にされたり……

方国との戦争に関する甲骨文は、武丁の時代のものに多く見え、その後は武丁の子の祖庚・祖甲を経て廩辛・康丁の時代以後再び増加していき、最後の帝乙・帝辛(紂王)の2代に至る。

殷末の時期に殷と敵対した主要な方国(じん)(ぽう()(ほうがある。それぞれ甲骨文、あるいは金文に殷王が親征したことが見える。

癸巳卜す、貞う、王、旬に□(うれい)亡きか。二月に在り、斉□(せいし)に在り。隹れ王、来たりて人方を征す。(合集36493)

(癸巳の日に卜占を行い、問う、王にこの十日間に悪いことがおこらないだろうか。二月、斉の駐屯地にて。王が到来して人方を征伐した時のこと)
*□はウェブで表示できない漢字のため、転載の都合上□で表記した。以下同様。

この甲骨文では人方へと親征した王が斉の駐屯地に所在しているが、この「斉」というのは西周の諸侯国で太公望を始祖とする山東省の斉と同地とされる。人方は殷墟(紀元前1300年ころ以降の殷の都城の遺跡)を拠点とする殷から見て東方の勢力であるとされている。

 

残片で通読が困難であるが、「王其呼……延執冑人方□、焚……弗悔」(合集36492)は、この人方の首領を捕らえて焚刑に処すことを記録したものと解釈できる。敵対した方国の首領には過酷な処罰が下されたり、人牲として殷の祖霊に捧げられることもあった。

これも残片であるが、「……方伯……祖乙伐……」(合集38758)は、方伯、すなわち敵対した方国の首領を祖乙など殷王の祖霊への供物として捧げたものと解される。「方伯」の上に「人」字が欠けており、人方の首領を指すとする説もある。そしてこの字句は人間の頭骨に書かれたものであり、敵兵か、あるいは方伯自身の頭骨の可能性もある。

殷代の甲骨文字の一例(photo by gettyimages)

殷末にはほかにも、田猟で得たと思しき鹿のような動物の頭骨に、その時の田猟のことなどを刻んだものが存在する。人頭骨の刻辞もそうした記念碑のようなものと位置づけられる

方国征伐の代償

人頭骨の刻辞にある「方伯」とは、諸侯の旗頭に与えられる称謂である。「……隹王、来たりて盂方伯炎を征す」(王が到来して盂方伯の炎を征伐した)(合集36509)とあるように、やはり殷王の親征の対象となった盂方の首領も「方伯」である(「炎」とはその名である)。

そして殷王朝を倒す周の君主も、陝西省の周原遺跡で発見された周の甲骨文によれば、「周方伯」と呼ばれている。

人方、盂方との戦いは殷の勝利に終わった。一般的には、長年の方国との戦争で殷も疲弊し、それが王朝の滅亡へとつながっていくとされるが、それとはやや違った見方もある。甲骨学・殷代史研究者の落合淳思は、以下のように状況を整理している。

廩辛・康丁の時代からの対外戦争の再発と、それによる殷王朝の支配体制の動揺を承け、殷末の王は軍事力の強化と祖先祭祀の徹底によって対外・対内両面で王権の強化を進めた。そして軍事力の強化が功を奏して人方征伐に成功し、その威勢により王権が更に強化された。

しかしこうした殷王の集権化政策は、それまで殷に服属していた勢力の反発を引き起こした。彼らの目には王権の強化が自分たちへの圧制であると映ったのだろう。盂方も殷に反発した方国のひとつであり、盂方の反乱は何とか鎮圧できたものの、おそらくはその後も服属勢力の離反が相次ぎ、最終的に周の攻撃により殷が滅亡した。つまり危機への対処が逆に殷王朝の滅亡を招いたと見ているのである。

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