殷王朝首都(BC1300頃-1046)の遺構・殷墟(photo by Wikimedia Commons)

「酒池肉林」の暴君はなぜ討たれたのか? 古代中国史の史実に迫る

甲骨文から読み解く、殷王朝の戦争
古代中国・(いん王朝の(ちゅう)(おうといえば、愛妾・(だっ)(を寵愛し「酒池肉林」の語源となった放蕩三昧を尽くした暴君で、最後は周王朝によって王朝もろとも滅ぼされた王として知られている。しかし、考古学的成果や甲骨文から歴史を研究すると、この逸話とは違う姿が見えてくる。殷王朝は、なぜ周に敗北し滅亡したのだろうか?

先史時代から、殷・周の時代、春秋・戦国時代、秦の始皇帝の中国統一、項羽と劉邦の楚漢戦争……古代中国の戦争を軸に「中華帝国」誕生の前史を明らかにした画期的入門書である、佐藤信弥氏による現代新書の最新刊『戦争の中国古代史』から、その一部をお届けする。

甲骨文に見る殷と周辺国

殷王朝の支配領域、そして殷を取り巻く世界を、同時代の文字資料である甲骨文から読み解いてみよう。甲骨文は殷代後期の第22代の殷王()(ていの時代以後の卜占の記録が大半を占めるが、当時の政治や軍事に関係する記述もたくさん見られる。

甲骨文では、殷の王都を指して「王邑」「大邑商」「天邑商」などと呼んでいる。「天邑商」は「大邑商」と同義とされる(「天」は「大」に頭部を加えた字で、「大」字と通用する)。「大邑商」とは「大なる商邑」ということである。中国で殷王朝のことを商王朝と呼ぶのは、その都城の名を採ったものである。

 

殷王朝の支配領域はこの大邑商を中心にして広がっていた。大邑商の外側には、殷王朝が直接支配する区域が広がる。ここには王族などが領有する小規模な邑が置かれ、そうした氏族の族長が官吏となって王朝の運営に参加した。この区域を後世の用語によって王畿とか畿内内服と呼ぶ。この王畿が殷王国の直轄地ということになる。王畿は、都城を中心とする首都圏のようなものとして理解できるだろう。

古代の日本も中国の王畿の概念を取り入れて都の周辺の区域を畿内と呼称した。現在でも「近畿地方」という地方名でその名残を留めている。

殷代内服・外服概念図
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王畿の外側には、(ほう)(ごくと総称される国々が盤踞している。方国には殷王朝成立以前からその地を支配していたものや殷王朝とは無関係に成立したものもあれば、殷王によって王族や臣下を首長として建てられたものもあると見られる。方国の中には殷王朝に服属するものもあれば敵対するものもあった。

殷王朝も方国のひとつであり、かつ最も勢力が強大なものであった。

そのうち殷に服属する方国の首長が侯や伯と称され、諸侯として扱われた。彼らの領土が王畿を取り巻き、外敵から殷王朝を守る役割を担うこととなった。この侯や伯の領土が広がる区域を、やはり後世の用語で畿外あるいは外服と呼ぶ。

外服殷と敵対する方国と接する最前線ということになり、要衝に王朝の軍事拠点が置かれることもあった。たとえば新型コロナウイルスの発生で知られることとなった湖北省武漢市の黄陂区にある盤龍城遺跡は、前線に近い土地に配置された諸侯の都城、あるいは殷の軍事拠点だったのではないかとする見方がある。そしてこのような畿内・畿外の制は西周にも受け継がれた。

殷王朝にとっての方国とは、後代の漢王朝にとっての匈奴、あるいは現代の日本にとってのアメリカや中国と同様に、基本的には外国、外部勢力である。その中の一部に殷の属国となる勢力や、殷が建てた方国が存在するということになる。

方国の総数は、研究者によって数え方が異なるが、たとえば中国の甲骨学・殷代史研究者の孫亜氷は、金文や後代の文献に見えるものも含め、合計158の方国を挙げている。

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