今回の人物 石原莞爾 vol.1

山形県酒田市光丘文庫へ。
大川周明の資料に目を引かれた

 気がつくと、車窓は真っ白であった。

 平成七年の三月頭である。

 その前夜、一水会の木村三浩さんから、見沢知廉を引き合わされた。

 以前から、長い勤めをしている仲間が、作家志望なので、出てきたら面倒を見て欲しいと云われていた。

 高田馬場での勉強会の後、木村さん、見沢さんらと呑んだ。風邪気味だったのに、カラオケに行ってしまった・・・。

 あとで思ったのだけれど、その日は見沢さんもかなり無理をしていたのだった。一月くらいたって、新潮社にお連れするために高田馬場の駅で待ち合わせた。八〇年代風のトレーナーを着た見沢さんが、駅構内の壁を触りながら、一歩一歩ゆっくり歩いてくる。やっと改札を抜け、苦笑しながら云った。「人混みが苦手で・・・」

 独房で九年過ごすというのは、そういう事なのか、と思った。それから見沢さんは、独房での時間を取り戻すように小説を書き、ベストセラーを出し、亡くなってしまった。

 いずれにしろ、初対面の晩、私は泥酔し、なんとか帰宅し、ほとんど寝ずに東京駅のホームに辿りついた。同行してくれる編集者のI氏がやってきて、抱えるようにして新幹線に乗せてくれた。席に着いた途端、鼻血が出た。

評伝執筆にあたって課したルール

 文芸批評家として文筆生活に入り、一方で『諸君!』などの論壇誌に論文を書くという生活を五年ほどしていた。

 物書きとしての生活は、充実していたし、おかげ様で評価を得ることが出来たし、原稿の注文も沢山いただいた。

 五年近くたって、ちょっと考えた。「まとまった仕事をしたいな」と。

 この「まとまった」のニュアンスを伝えるのは難しい。文芸誌に評論の連載を書くのも、論壇誌に書いたものを単行本に纏めるのも、「まとまった」仕事には違いない。けれども、そういった仕事とは、違う、もっと大きな、時間軸としても問題設定としても、スケールの大きい物に取り組みたい・・・。

 いろいろ考えて、評伝を書く事にした。

 時代を背負った、人間の生涯を書いていく。

 その時、一つの事を決めた。

 対象の人物が行った場所には、すべて行く、という事。

 文芸評論や論壇の文章というのは、あまり取材をしない。もちろん、関係者や専門家から話を聞いたり、小説の舞台になった場所を歩いてみたり、言及されている絵画や芝居を見に行ったりするけれど、それほど頻繁ではない。

 けれど、評伝を書くからにはその人物が行った場所すべてに行こう、見てこよう、と考えたのである。

 テーマを石原莞爾にしたのは、日本の陸軍きっての鬼才でありながら、また一面、きわめて純度の高い、思想家であったこと。その二面性や複雑さに引かれたからだ。

 石原莞爾の評伝は、何冊か出ていたが、彼の足跡をすべて追ったものはなかった。

   ∴

 庄内平野は、雪に包まれていたけれど鶴岡の市街には、なかった。

「昔はもっと沢山降ったのですけれど」

 石原の縁戚―姉志んの息子中村勝鋭の妻―にあたる中村静さんと、その友人の方たちが迎えてくださった。

 生家の跡、学校、一時、鶴岡に住んだ時の家などを巡って、鶴岡市の図書館に連れていっていただいた。

 図書館には石原の資料があると聞いていたのだが―たしかに相沢事件の犯人との書簡や、軍服などはあった―、一番、関心のあった蔵書等は、酒田の光丘文庫が購入したという。

 翌日、酒田に赴いた。

 最上川に面した小高い丘、日枝神社に隣接する光丘文庫は、光丘と号した、本間家中興の祖、四郎三郎にちなんだもの。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡に唄われた本間家は、元禄年間初頭に本間久四郎原光を初代とし、廻船の港として隆盛の兆しを見せていた酒田港を舞台に商業から金融、地主業に進出して、巨富を築いた。

光丘文庫大正14年設立。現在酒田市が運営、本館などは酒田市指定文化財にもなっている

 一方で商売は穏健なもので、本間家の所有地では、一揆は起こらなかったという。光丘の代から、砂防林の造成を行うなど社会事業も行っている。

 大戦前まで本間家は、土地三千町歩、小作人二千七百人を擁する全国一の地主であった。

 光丘文庫は、大正十四年に本間家が所蔵していた蔵書二万冊を礎にして設立された。建物は、西洋建築と和式を折衷したいわゆる「帝冠様式」(上野の国立博物館が代表的)である。

 石原莞爾の蔵書は、目録にまとめられていた。蔵書だけではなく、作戦分析のために部隊移動を記録した膨大な模造紙や、ナポレオン関係のコレクションが収蔵されている。

 今一つ、目を引くのが大川周明の資料である。

 石原より三歳年長の大川周明は、酒田市の北方飽海郡西荒瀬に生まれた。石原との接点はほとんどなかったが、同郷の人間として意識していたのだろうか。

 大川周明の面白いところは、著述においては『近世欧羅巴植民史』のような学術的な著作を主にしているにも拘わらず、三月事件、十月事件、五・一五事件といった、クーデタ事件に積極的に関わっていることだ。

 これは、一時期、老壮会の同志だった北一輝とは、非常に対照的だ。北の主著とされる『日本改造法案大綱』は、国家改造のプログラムと、来るべき国家像を詳細に描きだしたものだ。憂国の情に溢れた青年将校が、飛びつくのも当然という、具体性をもっている。

 ところが、北は実際のクーデタ、維新活動には一切、関わっていない。二・二六事件で死刑にされたけれど、これはまったくのフレーム・アップで、極力、クーデタ等には関わらないようにしていた。

 学術的な書物を多数書いた大川が、実践において積極的であり、きわめて現実的なクーデタ計画を描いた北が、消極的だったのは面白い。

 いずれにしろ『近世欧羅巴植民史』は、日本ではじめてコーランを全訳した人物にふさわしい、大きなスケールを備えた名著であることは間違いない。

以降 vol.2 へ。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら