「支配階級というものは、自分の利益に合わせて法律を制定する。自分たちの利益になることこそが、従属する者たちにとって『正しいこと』なのだと宣言し、これを踏みはずした者を法律違反者、犯罪人として懲罰する」(プラトン『国家』第1巻12章「トラシュマコスとの対話」より)
3月5日から、北京の人民大会堂で、年に一度の中国の国会、全国人民代表大会(人大=レンター)が始まり、私は連日、CCTV(中国中央広播電視総台)のインターネットTVで観ている。
ある程度、予想していたこととはいえ、TVに映る2900人の人大代表(国会議員)たちは、まるで金太郎飴のように、「習近平総書記のおかげで〇〇が達成された」と口にする。まるで、中国が大きな北朝鮮になったかのようである。
私が北京に暮らしていた胡錦涛時代は、人大と言えば、いまよりははるかに自由な議論が展開されていた。戸籍制度改革や少数民族政策などを巡って、代表たちが揉めたりもしていた。
記者たちにも、比較的大らかな取材活動が認められていて、大臣や地方の省長(県知事)らを直撃して話が聞ける数少ない機会だった。彼らは人民大会堂のロビーで談笑していたり、廊下を歩いていたりするので、声をかけるのだ。ある大臣に、トイレで「連れション」しながら話を聞いたこともある。
もちろん、記者を避けようとする幹部もいるが、逆に記者たちと虚心坦懐に会話を交わすことで、政策のヒントを得ようとしている幹部もいた。「この問題を日本はどうしているのか?」などと、逆質問を受けることもあった。
ところが、そんな「大正デモクラシー」のような牧歌的な時代は過ぎ去った。いまの中国は、野心満々の「昭和前期」ならぬ習近平時代である。おまけに今年は、「コロナ感染防止」という理由で、記者たちはメディアセンターに押し込められてしまい、人大代表たちとの「接触」すらできない。
北京のある古株の中国人記者と話をしたら、「昔に戻ってきたな」とポツリと言った。「昔」とは、毛沢東時代である。