「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」

わかった気でいる年長者に言いたいこと
鮎川ぱて @しゅわしゅわP プロフィール

というより、「うっせぇわ」を知っている年長世代の多くが、すでに上記のような行動をとってしまったあとではないかとも思う。この箇所の誘惑は強い。誰かに言いたくなっただろうし、オマージュだと気づいて、この曲を「わかった気」になった人もいただろう。まさにそのトラップによって、この曲は大人を大人として切り離す。

年長世代が「わかった気」になって満足することによって、それ以上若者世代のテリトリーには土足で踏み込まれない。彼らの“浅い理解”に頷いてさえおけば、自分たちとこの曲の特別な結びつきには介入されない。頷きながら、若者は内心「そんなことどうでもいいんだよ」と思うだけだ。

分断である。基本的には、分断は現在の世界を苦しめるネガティヴなワードだが、誰かのものを、「それは私のものでもある」と言ってくる強者――つまりジャイアンをたしなめるときに必要なものでもある。残念ながら。

もうひとつのトラップは、大人への抗議を歌った上の世代のヒーローに重ね合わせて、「わかった気」になることだ。たとえば尾崎豊と重ね合わせること。

この曲は「大人への抗議」を歌っていない。抗議とは、コミュニケーションである。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経つ。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的である。若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」だろう。

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「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、実際には語られることのない本音である。言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。事が起こったときにはそれは終わっている。コミュニケーションは必要とされない。

先日、尾崎豊のドキュメンタリーを目にする機会があった。両親と尾崎の仲がよかったことが描かれていて、とても納得してしまった。抗議とは、「真意が伝わるはずだ」という信頼と表裏一体である。「うっせぇわ」の断念と拒絶は、この通りもっと知的で冷たい。

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