紛争地で一体何が…いとうせいこうが調べないで現場に行って見たことを全部書く理由

石戸 諭 プロフィール

そこで、いとうは一人の作家の名前を口にした。小説家、開高健――。ベトナム戦争を取材するため、朝日新聞社の臨時特派員として派遣された開高はルポルタージュを書き続けた。小説だけでなく、ベトナムや東京を舞台に描いたルポは、ノンフィクションの世界でも古典と位置付けられている。

《今は、昔のように作家が現場や海外に行かない。グラビア雑誌とかで旅には行くかもしれない。でも、紛争地の最前線はともかく、その近くにも行かない。でも、海外の作家たちは、今でも開高さんみたいな仕事をしている。

だから、僕はいつでも「あれ、なんかおかしいな。日本はいつからこうなったんだろう」と思ってきたんだよね。

作家が現地に行って、見て、書くというのはジャーナリズムとは別の視点を提供するということになる。日本では行きたいという作家も減っていると思う。僕はこのシリーズでは、知らないふりをして行っちゃってるけど、時代の流れに逆行していることだとは思っている。》

ガザ地区の軍事封鎖に抗議するデモに参加して、イスラエル軍に銃撃された若者たち(写真:横田徹)
 

「俺」の存在、その意味と役割

そこで大事になってくるのが、現場で右往左往する「俺」の存在だ。「俺」は熱心に記録し、熱心に人の話に耳を傾け、複雑な現地事情を受け止め、現実を直視する。

例えば、「俺」はガザで活動する「国境なき医師団」のキャンディダという広報担当者から「証言活動も気を遣う」という発言を聞いている。NGOの場合、発言の内容によっては現地の政治勢力を刺激し、活動をやめさせられ追い出される場合もあるということだ。

そこで、自分たちがいなくなって、患者が置いていかれたら患者が困るから、「私たち」には言えることと言えないことがあるというニュアンスも含まれている。

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