第2次大戦中の日本は、なぜもっと早く降伏しなかったのか?

ソ連のスパイに騙されたノイマン
高橋 昌一郎 プロフィール

ノイマンの隣にいたスパイ

フックスは、1911年にドイツで生まれた。父親が神学部の教授を務めるライプツィヒ大学に進学し、21歳で共産党に入党した。ところが、その翌1933年、ナチス党がドイツ国会議事堂の放火は共産党員によるものだと弾圧を始めたため、彼は、共産党員の身分を隠すようになった。

その後、イギリスに留学したフックスは、ブリストル大学大学院で物理学の博士号を取得、さらにエディンバラ大学大学院でマックス・ボルンの助手を務めながら原子核物理学の博士号も取得するという、非常な優秀さを示している。

 

1943年にアメリカに渡り、コロンビア大学研究員として「爆縮」を理論化し、そこで「マンハッタン計画」に関わるようになった。翌年にはロスアラモスに移住し、ハンス・ベーテの下で原爆開発の中枢に関わる任務に就いた。

彼は、無口だが陽気で、周囲からの評判はよかった。エドワード・テラーは、「フックスは好人物だった。親切で、有能で、いろいろな仕事にも気配りができたので、ロスアラモスでは人気者だった」と述べている。

原爆製造が完了した後、ロスアラモス国立研究所では、その特殊技術に関連して、将来の特許取得が見込まれるあらゆる発明について、その詳細を「発明開示書(Disclosure of Invention)」と呼ばれる機密書類にリストアップした。

この書類を作成するためには、原爆製造に関連する主要分野に精通し、発明の内容を精密に分析できる人物が必要である。そして、その執筆者として選ばれたのが、ノイマンとフックスの二人だった!

つまり、フックスは、多くの研究者と共に原爆を製造し、その過程で生じた数えきれないほどの発明の詳細をノイマンと一緒に話し合って、共著で機密書類をまとめた人物である。そのフックスが、実はソ連のスパイだったわけである。

クラウス・フックス(photo by gettyimages)

フックスが世界に与えた影響

この事件が、どれほど大きなショックをノイマンに与えたのか、触れた文献は見当たらない。

しかし、それまでの順風満帆な人生で、その種の「信じ難い裏切り」を経験したことのないノイマンは、底知れぬ「恐怖」を感じたのではないだろうか。そして、彼の「憎悪」が、フックスの背後に存在する「ソ連」に向けられたのではないだろうか。

1950年3月1日、フックスの裁判が、ロンドン中央刑事裁判所で開始された。フックスは、自分の罪状を全面的に認め、1943年から47年にかけて、4回にわたり、ソ連に機密情報を漏洩したことを自白した。その中で最も重要な機密情報が、ノイマンと共著の「発明開示書」だった。

このスパイ活動によってフックスがソ連から得た報酬は、400ドル余りの経費にすぎない。彼は「筋金入りの共産主義者」であり、そうすることが人類のために「正しい」という信念に基づいて、ソ連に情報を流したのである。

もしフックスの裁判がアメリカで行われていたら、国家反逆罪で死刑になったかもしれない。しかし、イギリスの裁判では、禁錮14年が最高刑だった。その裏には、司法取引や国家間取引があったのではないかともいわれている。

フックスは、最高刑の判決を受けたにもかかわらず、9年間の刑に服した後、1959年に東ドイツに引き渡された。東側では、彼は英雄として迎えられ、「カール・マルクス勲章」を授与された。その後、ドレスデン工科大学教授に就任し、中華人民共和国の留学生たちに原爆製造方法を教えた。そのおかげで、中国も早期に核兵器を開発できたという。

彼は、1988年に亡くなった。

関連記事