東京から京都に移り住んだジャーナリストの秋尾沙戸子さんと、秋尾さんを京都の師とあおぐ漫画家の東村アキコさん連載「アキオとアキコの京都女磨き」。今回のテーマは「ひなまつり」。秋尾さんのお母様の「御殿飾り」をもとに、ひなまつりの歴史や伝統、代々受け継がれていく愛の系譜を辿る。

-AD-

ひな飾りは私にとって「宝物」

「美人の母親の下に父親似で生まれた娘」の悲哀については以前、形見の着物の話で触れた(該当の記事はこちら)。じゃあ、娘とそっくりの父親に優しくされたかと言えば、それも違う。思春期以降、両親から否定され続けてきた娘が、それでも横道にそれず現在まで生き延びたのは、「幼少期には両親に愛されたはず」という思いこみがあったからだ。

私が小学生のときに名古屋から東京に父が転勤。社宅暮らしが始まって、両親は豹変した。企業戦士の父は家庭を顧みることなく出世競争に邁進。母は社宅内での人間関係維持のため神経をとがらせていた。ストレスを抱えた母にはサンドバックが必要で、自分に似ていない娘が選ばれたのだろう。中学生の私は、理不尽な叱責を受けるたび、部屋に籠って泣きながらアルバムを開いた。般若のような母は仮の姿で、本来の母ではない。昔の写真が示す柔らかい母の笑顔が、私を救ったのだった。

東京で初めて一人で飾った亡き母の御殿飾り。京都(と関西の一部)では内裏雛(男雛と女雛)が左右反対。撮影/秋尾沙戸子

そんな幼い日の甘い記憶に、ひなまつりがある。我家には私のひな飾りはなく、母の御殿飾りを流用していた。毎年、母と一緒に箱から人形を出したときの、火鉢で菱餅を焼いてもらったときの、あの母の胎盤内にいるような安心感が、いまでも忘れられない。

ひな飾りは私にとって、へその緒に匹敵する宝物である。母が63歳で早逝してすぐ、私は名古屋の物置から御殿飾り一式を引っ張り出して東京に送った。自分の手で組み立てて、あの日の記憶をたどらねばならない、幼いころは母に愛されていたという確証をつかみたい、と私の脳が反応した。

唐破風の屋根、襖、御簾、欄干……。こんなに重くてややこしい御殿を、母はどうやって組み立てたのだろうか。20世紀末、まだネット情報が少なく、トリセツ無し「御殿プラモ」作りに、私は一人で挑んだのだった。