二・二六事件は「昭和の歴史」を決定的に変えた…軍部の暴走が始まった理由

陸軍の「一大不祥事件」だった
今からちょうど85年前の1936年2月26日、「二・二六事件」が勃発した。陸軍の青年将校が現役の大将や大蔵大臣を惨殺した「軍事クーデター」は、全国民に大きな影響を与え、昭和史の転換点にもなった。日本政治外交史の専門家で『近代日本と軍部』を著した小林道彦氏は、二・二六事件をどのように語るのだろうか?
 

国民の熱狂で決まった「条約破棄」

1934~35年、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の改訂を控えて、日本国内では英米と対等の軍備を求める国内世論が盛り上がっており、海軍軍令部も条約の廃棄を主張していた。そこでは、民族的矜持(きょうじ)が前面に打ち出されており、冷静な戦略的判断は後景に退いていた。

海軍とは対照的に、外務省や陸軍は海軍軍縮条約の廃棄には慎重な態度を示していた。外務省は条約の失効を補完すべく、日英米不可侵協定の締結を両国に打診しており、ソ連主敵論に立つ荒木貞夫ら陸軍皇道派首脳部もまた英米との対立は回避したいと考えていた。永田鉄山ら統制派の門戸開放=対英米協調論については『近代日本と軍部』内で触れた通りである。一方、皇道派青年将校は両軍縮条約の廃棄を声高に主張していた。

ロンドン海軍軍縮会議の代表団。左から4人目が首席全権の若槻礼次郎元総理[Photo by gettyimages]

この問題は岡田啓介内閣にまで持ち越されたが、結局、「現下国民の熾烈なる要望」に岡田内閣は押し切られた(1934年9月7日、ワシントン海軍軍縮条約の年内廃棄を閣議決定)。外務省や陸軍中央は、日中関係さえ正常化されれば対英米関係の修復は十分可能だと考えていたのである(井上寿一『危機のなかの協調外交』144〜176頁)。

関連記事