渋沢栄一がいなければ今の日本はなかった…結局、何がスゴかったのか?

鉄道の歴史から見えてくるもの
佐藤 信之 プロフィール

デベロッパとして社会貢献

現在の東急は、創業時の社名を目黒蒲田電鉄と称した。渋沢栄一が構想して事業に着手した田園都市会社が設立した鉄道会社であった。

そもそも渋沢栄一が関心を持った田園都市とは、「簡単に申せば自然を多分に取り入れた都会の事であって、農村と都会を折衷したような田園趣味の豊かな街をいう」と解釈していた。渋沢自身も数度の渡米経験があり、海外の状況に精通していた。

アメリカの大都会では、経済活動の発展と人口の増加により過密化とともに犯罪の増加で生活のしづらいところになっていた。経済的なゆとりのあるエリートは郊外の新たに開発された自然豊かな高級住宅地に移り住んでいた。

しかし、そのようなアメリカでの動向よりも、むしろイギリスで進みつつあったカーデンタウン(田園都市)の運動に興味を惹かれたようである。四男の秀雄をイギリスに派遣して実地に調査をさせたりしていた。

 

1898年、日本の年号では明治31年、イギリス人のE・ハワードは『明日-真の改革のための平和な道』を出版し、田園都市の考え方を広めるきっかけとなった。そして、ガーデンシティ・アソシエーションを設立して、ロンドン近郊のレッチワースでこの考えを実践することになる。

産業化したロンドンでは工場の煤煙で空気が汚れ、市民は劣悪な環境の中で生活を余儀なくされていた。そこで、郊外の自然豊かな地域に、農業と一体化した都市を建設することを計画した。

さらに、ハワードは、1902年7月に事業の実施準備を担当するための会社としてガーデンシティ・パイオニア・カンパニーを設立した。続いて、その翌年にはファースト・ガーデンシティ社が設立されて、ロンドン近郊(55km北方)の田園地帯レッチワースに新しい概念に基づく住宅地の開発を開始することになる。

ハワードの考えるガーデンシティは、土地は共同所有とされ、住民はその土地を賃貸して地代を支払う。その地代収入が町の建設のために使われた借入金の返済に充てられ、残った分が、道路、学校、公園といった公共施設の整備と運営費用に使われるというもの。

この場合、土地はコミュニティが所有者であり、そのコミュニティを構成しているのは住民自身であるので、地代は、実際には自分達自身の負債を返済するために使われると同時に、さまざまな公共サービスの経費を負担することを意味するのである。

実際には、会社が住民から委託を受けてこれらの業務を実施する訳であるが、一般の会社のように利潤の獲得を目的とする会社ではなく、本来は税金で負担すべき公共サービスの経費を地代収入の余剰分で賄われることができるのである。もちろん、鉄道の建設費用にも当てられて運賃の引き下げの財源とすることもできるとした。

このガーデンシティは田園地帯の中に浮かぶ円形の島の体裁で、町の住民は農作物の供給地に囲まれ、農村の側は町の施設を利用できるとともに町で出る下肥を容易に手当てできるということになる。「わずか数分歩いたり馬や自転車に乗って行けるところに」ありのままの自然が広がっているのである。

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