渋沢栄一がいなければ今の日本はなかった…結局、何がスゴかったのか?

鉄道の歴史から見えてくるもの
佐藤 信之 プロフィール

さらに、明治33年10月に東京馬車鉄道が東京電車鉄道に改称して、馬車軌道の電化を進めた。これで東京の路面電車は東京電車鉄道と東京市街鉄道の2社で経営されることになる。

明治36年7月内務大臣の意向を受けて、渋沢栄一と東京府知事千家尊福は東京電車鉄道と東京市街鉄道の合併を仲介し、仮契約まで漕ぎつけるということもあった。

しかし、その後市街鉄道の株主の中に合併に反対する者があらわれて、内務省は両社の合併に対して「聞き届け難し」との指令が発出され、結局実現しなかった。

また、明治30年には岡田治衛武らが発起して、最初四谷信濃町から渋谷村広尾、矢口を経由して川崎までの川崎電気鉄道を出願した。しかし実際に免許が交付されたのは信濃町~広尾橋~芝金杉橋間であった。

東京電気鉄道に改称の上、明治37年12月から順次外堀線として路面電車を開業させた。郊外の区間については、岡田は、別に武蔵電気鉄道を発起して、明治39年11月に渋谷広尾町から横浜市平沼までの電気鉄道の敷設を出願した。

 

岡田治衛武は、船会社を経営して財を成し、宗教系の生命保険会社を興した。港湾整備にも力を入れ、大師河原村(川崎市の多摩川河口部)地先の埋め立てや京浜運河の開削事業を行った。

武蔵電気鉄道と同じころ、根津嘉一郎ほか22人が発起人となって東海電気鉄道が計画され、芝高輪南町から東海道線の国府津までの電気鉄道を出願した。両社の路線がほぼ並行していることから、東京府知事の千家尊福が仲介して合同させることになり、武蔵電気鉄道が存続会社となった。同社は、現在の東急東横線につながっている。

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