渋沢栄一がいなければ今の日本はなかった…結局、何がスゴかったのか?

鉄道の歴史から見えてくるもの
佐藤 信之 プロフィール

渋沢栄一は、日本鉄道をはじめ民営の幹線鉄道の設立にかかわり、民間による鉄道建設の推進側にいたが、次第に鉄道国有論に傾いていった。そして、渋沢は、東京商業会議所の会頭として、明治31年と34年に鉄道国有化の建議書を提出した。

鉄道事業を地域独占で経営させる場合、私的独占は利潤を目的にして、利益の上がるものだけにしか投資しようとしないとして、国有論を容認する立場に変わっていた。

政府は、明治38年に鉄道国有化法の素案を作成し、明治39年帝国議会に提出され、3月に成立し公布された。同年から翌年にかけて全国の幹線私鉄の国有化が実行された。

 

東京の都市交通の整備を支援

渋沢は、大都市の鉄道・軌道の起業にもかかわった。

東京の都市交通として、明治15年に新橋から銀座通りを通って、日本橋、浅草を結んで東京馬車鉄道が開業した。

アメリカに留学経験のある谷元道之と種田誠一が設立した会社であるが、種田は第三十三国立銀行の支配人で渋沢栄一とも親しくしていた。

東京の繁華街を結ぶ交通機関として利用者も多かったが、巨額な建設費と運営費により赤字が続き、このための借り入れが谷元と種田の個人的な負債となっていた。

二人が経営から退いた後、立て直しに尽力したのが牟田口元学と中野武営であった。いずれも元官僚で、大隈重信派の官僚が下野した「明治十四年の政変」で辞職していた。また大隈重信の立憲改進党の中心メンバーでもあった。

中野は、渋沢の盟友で、渋沢が設立した多くの企業に協力した。また東京商法会議所の第2代会頭として、渋沢から職務を引き継いでいる。

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