芥川賞受賞『推し、燃ゆ』の宇佐見りんが語る「“推し”と“癒し”の関係」

恋人とも家族とも違う、推しという存在
宇佐見 りん

だからといって、家族関係や友人、恋人関係といった、他の人間関係に引けを取るとは思っていません。それらと並ぶ、一つの新しい人間関係だと思っています。

例えば友人関係であれば、自分の言動によって友人との距離が縮まることもあれば、関係が壊れることもありますよね。

対して、この本に登場するあかりと推しとの関係は、一方的だからこそ、距離は離れることも近づくこともない。自分を受け止めて肯定してくれることはないけれど、否定もされない。

あかりは、自分の現状を誰かに受け入れてもらうことはとうに諦めていて、ただ自分からも他人からも否定される辛さは身に染みている。そういうとき、遠くにいるそうした存在が、癒やしになり、孤独を和らげてくれることがあるんだと思います。

「好き」だから、「まるごと解釈したい」

―あかりは学校でも家庭でも生きづらさを抱えています。勉強はできず、バイトはクビになり、部屋は汚れ、爪を切るのも億劫……苦しい日常が描写されます。

爪が伸びることからも、生活がままならないことからも、逃れることはできません。小説は虚構ではあるのですが、現実の重さを書きたいと思いました。

―そんなあかりにとって推しを推すことは〈背骨〉であり唯一の〈生きる手立て〉。テレビ、ラジオ、雑誌など、推しのあらゆる発言をチェックし、作品も人もまるごと解釈しようと、全エネルギーを注ぎます。「推す」人の心理と生態、そして情熱がよくわかります。

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実際にそういうファンの方を見かけることも多いです。私自身は実在する推しを解釈することはなく、自分自身のスタンスとは違っていたので、書くにあたって色々と調べました。

そういう方々のSNS投稿やブログを通して、「知りたい」と「好き」は近しいものなのかなと思いましたね。

 

ただ、誰かが解釈したその人の像が、そのままその人であることはないとは思っています。距離や関係性が遠い、近いにかかわらず、根本的に他人のことはわからないものだから。これは友人でも恋人でも、ある意味同じではないでしょうか。

―あかりの推しは炎上によって人気を失い、追い込まれていき、一つの終焉を迎えます。ラストはどのように考えていかれましたか?

推しを推すことを中心に書くならば、自然の成り行きだろうと考えました。理由はなんであれ、推しが実在する人である限りは、いつか推せない状況がくる。

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