日本においてはこの意識が圧倒的に欠落している。
歴史を見ても自然発生的にアーティストは誕生しない。ほとんどの場合、その才能に対し投資を惜しまない後援者が存在するものだ。
「でも、アーティストって死んでから認められるものでしょ?」
これもよく日本で言われることだが、では死んでから有名になったアーティストの名前を何人あげれるだろうか?
「ゴッホ……、ヘンリーダーガー……石田徹也……」
僕は正直10名も挙げられない。
歴史に残っているアーティストの大半は実は、生前に天才と呼ばれた人間ばかりであり、それぞれをつぶさに観察すればほとんどの場合、その才能が羽ばたくまでの助走期間を支えた人間が存在する。にもかかわらず、未だに日本国内でアーティストは清貧であるべきという考えが根強い。
ではそもそもなぜアーティストを育成する必要があるのだろう?
少し僕の話をさせていただきたい。
僕は近年、アートに対して不必要に上がった敷居を下げるべく様々なことに取り組んでいる。その一環でコロナ禍以前はパブリックスペースでライブペインティングをやっていたことがあり、そのときに障害を持ったアーティスト志望の青年と知り合った。彼は半身に障害があり車椅子生活を余儀なくされている。
そして握力もあまりなく筆を握るにも特別な道具を必要とする。自身も作品を描くので見てほしいと差し出された彼のポートフォリオを見たことがきっかけで彼のアーティストとしての活動を細やかながらサポートする事になった。
そしてある時に彼が描き上げた作品に僕は釘付けになった(参照「萩原慎哉 - Buy Original Contemporary Art - TRiCERA」)。
誰でも一度くらいは、水族館でペンギンが驚くほど上手く水中を泳ぐ姿を目にしたことがあるだろう。だがそれを絵画にするという視座を持つ人間は少ない。
なぜこれほど美しく、ペンギンの泳ぐ姿を描けたのだろう? そう考えたとき、僕の体は僕の意識とは無関係にざわついた。
「障害が理由で色んなことを諦めてきたから、作品作りだけは諦めたくない」
彼のいつかの言葉が頭に浮かんだ。
ペンギンが水中を自由に泳ぐ姿をこれほど美しく描けるのは、それほどに彼が不自由の中でもがいているからなのではないだろうか。
障害について我々健常者が何かを語ろうとするとき、どうやってもなんらかの配慮をしてしまう。
だが当事者である彼の描きあげたペンギンが水中を泳ぐ美しい作品は、障害を持った当事者として生きることの難しさを何よりも僕に教えてくれた。
僕の文章力の拙さゆえに彼に同情していると読者に伝わるのは本意ではないので明確に書かなければならないが、僕に大きな気付きを与えてくれた彼を心から尊敬しているし、アートの存在意義を彼の作品を通し強く実感することができて心から感謝している。