新型コロナ、「パチンコ・保健所・夜の街・若者」を敵認定する人々が抱える「深刻な問題」

分断と排斥を超えるには
原田 隆之 プロフィール

どうすれば理解し合えるか

実は、ここには大きなパラドクスがある。感染を不安視し、他者を排斥する人ほど、感染は「他人事」なのだ。自分とは関係のないどこかで感染が起こっていて、それが自分に降りかかると思っている。感染は「ソト」の不心得者に起こることで、自分の領域である「ウチ」に「ケガレ」を持ち込まないでほしいと思っている。そこに、排斥や分断が起こる。

しかし、もちろんコロナに罹ったのは不心得者でもなければ、異界の住人でもない。どんなに気を付けていても罹るときは罹る。罹患したのは、われわれと同じように生活をし、同じようにコロナを不安に思っていた普通の人々だ。

やはり、われわれは心にゆとりをなくしすぎている。そのゆとりのなさゆえに、自分からコロナを切り離し、「ウチ」と「ソト」の境界の外にコロナを追いやろうとする。「悪いのは誰だろう」と探しても、そこに本当の「敵」はいないので、次から次へと新たな「仮想敵」を作っては、その人のせいだと言い続けるしかない。

マスクをして混んだ電車で黙々と通勤する人々、スーパーのレジで間隔を空けて並んでいる人々、出歩くのを自粛して家にこもっている人々、さまざまな社会的イベントが中止になって悔しい思いをした人々、営業自粛をして泣く泣く店を閉める人々、店を開けていても客が来ないので不安な毎日を送っている人々、解雇されてしまった人、皆それぞれにコロナと闘っている。

〔PHOTO〕iStock
 

人は誰しも完璧ではないので、できることもできないこともある。できないことを粗探しして「敵」を見つけるよりも、できているところを認めて、「同士」を作ったほうがよほど健全で前向きである。

そして、お互い少しだけ相手の立場に立って、相手の目線で考えれば歩み寄ることもできるかもしれないと自戒を込めて考えている。「不安」を語る者の心情に思いを馳せ、「不満」を語る者の体験を想像することで、少しは歩み寄ることができるかもしれない。

コロナ禍のなかで、われわれは経験したことのない毎日を送っている。その経験のなかで、冒頭の子どもたちのように振舞うこともできれば、敵意をあらわに振舞うこともできる。どうせ大変な体験をしているのならば、それを糧に成長したほうがよいに決まっている。

「敵」はわれわれに外にあるのではなく、心の中にいる。

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