ダーウィンが『種の起源』で唱えた「生存競争」「自然淘汰」は、優れた(強い)ものが他を淘汰して生き残るという意味ではなく、環境に対して最適な存在が「結果的に」生き残るというものだった。
彼の主張の根幹は「環境が変わればだれが生き残るかも変わる。優れたもの、劣ったものという絶対的な線引きがあるわけではない」だったはずが、今でもよく正反対の「弱肉強食」と混同されているようだ。
料理もまた同じ。以前料理研究家のウー・ウェン先生に手作り餃子を頂いた際、「自分で召し上がる時はどの具材を使った餃子がお好きですか?」と伺ってみたことがある。
愚かな質問にも関わらず、ニコニコと「何が好きというのはありません。その日の献立の流れの中で最適なものがよいのです。他に味の強い料理があれば控えめなものがよいでしょうし、その逆の場合もあるでしょう」とおっしゃっていたのが印象深い。
献立以外にも時代や場所、作り手とそれを食べる人との関係、あるいはその日の気温や湿度によってさえ料理のつくりかたや味の感じかたは変わっていくのだから、そこに固定的・絶対的な良し悪しなどあろうはずもない。
ときどき餃子の餡につかうのは白菜がいいのかキャベツがいいのかといった論争を見かけるが、どちらにせよ餃子と呼ぶことを間違っているとまで言う人はほとんどいないだろう。
私は普段、中国の文化や社会に関する記事を書くことが多い。寄稿にあたり今回は「料理の変化から日本と中国を見る」をテーマとして設定した。
日中間は昔から往来が多く、特に日本ではラーメンや餃子に代表される「元・中華料理」がまるで自国の料理のように我々の日常に入り込んでいる。
しかしそれらはいずれも歴史・文化・社会の影響を受け、母国時代とは大きく様変わりしている。そのビフォーアフターを比べてみれば、お互いの類似や相違も見えてくるはず……というわけだ。
今回は中国から移民と共に伝来した「太平燕(タイピンエン)」が九州に持ち込まれ、徐々に熊本の看板料理「タイピーエン」として内外に認知されるまでを取り上げる。
(本稿では中国福建省版を「太平燕」、熊本版を「タイピーエン」と表記する)