ゲーム理論を生み出した天才ノイマンは、経済学も根本的に変えた

コンピュータの特許権は放棄
高橋 昌一郎 プロフィール

「ゲーム理論」を経済学に応用すれば…

アメリカ合衆国の第二次大戦参戦前後、フォン・ノイマンが、陸軍・ホワイトハウス・戦争省に直結する3つの機関の顧問を兼任していたことは、すでに述べたとおりである。

 

1943年には海軍兵器局常勤顧問としてイギリスに出張し、帰国した後は「マンハッタン計画」の原爆設計の中心的指導者となった。プリンストンとロスアラモスを往来する汽車の中では、人類史上初めてコンピュータの基礎概念を示す「ノイマン型アーキテクチャー」の草稿を書いた。

さらにノイマンは、その猛烈に忙しい時期に、後世の「経済学」に大改革をもたらす仕事を完成させているのである! 当時の彼の様子を、彼の妻クララは、次のように述べている。

「ジョニーは、東海岸を北に行ったり南に行ったりして、幾つもの会議を綱渡りのように回ってきた後、夜になって帰宅するのが常でした。家に足を踏み入れるなり、オスカーを電話で呼び出して、それから二人で執筆を始めて、夜中まで作業を続けました」

ノイマン邸に飛んでくるオスカー・モルゲンシュテルンは、ノイマンよりも2歳近く年上のプリンストン大学教授である。彼は、1935年に33歳の若さでウィーン大学教授になった優秀な経済学者だが、1938年にオーストリアを併合したナチス・ドイツによって、ウィーン大学を解雇された。

オスカー・モルゲンシュテルン(photo by gettyimages)

彼は生粋のドイツ人であり、母親はドイツ帝国皇帝フリードリヒ三世の庶子だったが、ユダヤ人研究者が多かった「ウィーン学団」に所属していたため、「政治的に不適切」とみなされたのである。

モルゲンシュテルンは、ノイマンが1928年に発表した「ゲーム理論」を経済学に応用すれば、人間の複雑な経済活動を数学的に厳密に定式化できるのではないかと考えていた。移住した直後、1938年にプリンストン高等研究所のノイマンと初めて対面した際、彼はその思いを熱く語った。

ノイマンが著書『量子力学の数学的基礎』で量子論を数学的に厳密に定式化したことは、すでに述べたとおりである。物理学と同じように、経済学を数学的に厳密に定式化できれば、後世に残る大事業になる。

意欲をそそられたノイマンは、モルゲンシュテルンと共著書を執筆することに合意した。

『ゲーム理論と経済行動』

1940年に始まった2人の執筆作業は、ノイマンに次から次へと戦時任務が入ってきたため、何度も中断を余儀なくされた。ところが、クララによれば、ノイマンは、まさにコンピュータのように、常に進行状況を正確に記憶していたという。

2人は数週間会えないこともありましたが、ジョニーはいつも、執筆に戻った瞬間、前回終わった場面から即座に作業を再開できました。それは、前回の作業の後、まるで何も起こらなかったかのようでした」

2人の5年に及ぶ共同作業の成果として、第二次大戦中の1944年にプリンストン大学出版局から発行されたのが、『ゲーム理論と経済行動』である。この英文640ページの「記念碑的著作」において、ノイマンとモルゲンシュテルンは、「二人零和(ゼロサム)ゲーム」を「n人零和ゲーム」に拡張し、さらに難解な「n人非零和ゲーム」の定式化に到達している。

1989年に発行された『ジョン・フォン・ノイマンと現代経済学』という論文集には、ノーベル経済学賞を受賞したケネス・アローとポール・サミュエルソンをはじめとする11人の経済学者が、フォン・ノイマンの「経済拡大モデル」(EEM: Expanding Economy Model)をテーマに論じている。

彼らに共通する認識は、「フォン・ノイマンは、経済学における分析方法を根底から変えた」ということである。

サミュエルソンは、彼が人生で出会った中でノイマンは「最も心の動きが速い天才」だと認め、「比類なきジョン・フォン・ノイマン」と呼んで敬意を表し、「私たちの専門分野なのに、彼は少し顔を出しただけで、経済学を根本的に変えてしまったのです!」と述べている。

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