ゲーム理論を生み出した天才ノイマンは、経済学も根本的に変えた

コンピュータの特許権は放棄
高橋 昌一郎 プロフィール

誰も特許権を主張できない

19463月、ペンシルベニア大学は、「戦時下のコンピュータ開発プロジェクトにおける発明の特許権を、すべて大学に譲渡する」という協定書に署名するように関係者全員に要求した。

この文書への署名を拒否したエッカートとモークリーは、大学を辞職せざるをえなくなった。2人は新たに会社を設立して、「EDVAC」の特許権を主張した。

一方、資金援助していた陸軍の法務部は、その資金によって生じた成果として、通常の手続きによる特許を申請した。というわけで、陸軍と大学と会社の三者が「EDVAC」の特許権を主張することになったのである。三者の代理人弁護士は何度も会合を重ねたが、各々の主張は変わらず、事態は紛糾するばかりだった。

 

194748日、陸軍兵器局長官の要請により、「EDVAC特許に関する調停」を目的とする会議が開かれた。ここに陸軍とペンシルベニア大学の代表者、ノイマン、ゴールドスタイン、エッカート、モークリーが一堂に集まった。

そこで誰もが認めざるをえなかったのが、「EDVAC」に関する『第一草稿』が、1年半前に出版されて、すでに世界中で読まれている「公刊物」だという事実である。つまり、『第一草稿』の内容は、すでに法律上は「私的」な特定の特許の対象とみなすことができない。

よって、エッカートとモークリーも、ノイマンとゴールドスタインも、大学と陸軍も、「誰も特許権を主張することはできない」という決定が下されたのである!

あまり注目されていないが、この会議における決定は、科学史上でも「画期的」なものである。なぜなら、この決定によって、世界中の誰もが『第一草稿』に表現された「ノイマン型アーキテクチャー」を、特許権などいっさい気にすることなく、完全に自由に使用できるようになったからである。

エッカート(右)とモックリー(左)(photo by gettyimages)

ノイマンの争奪戦

第二次大戦が終結して世情が落ち着き、ノイマンの『第一草稿』が広まるにつれて、さまざまな大学がノイマンを招聘しようと声を掛けるようになった。彼らは、プリンストン高等研究所にコンピュータを開発するような「実験室」がないことを見越していたからである。

もし世界的に有名なノイマンを招聘できて、新たなコンピュータを開発できれば、まさに「一石二鳥」である。その宣伝効果は絶大であり、他の大学に対して、圧倒的に優位な立場に立つことができる。彼らは、ノイマンを獲得するためには「今こそが絶好のチャンス」だと考えたわけである。

マサチューセッツ工科大学は、ノイマンを「学部長クラス」の地位で迎え、彼がコンピュータを開発するために必要とみなす「大学の所有するすべての資源を自由に使用する権限」を与えると保証した。

コンピュータ開発という観点からすれば、優秀な制御工学と計算機科学の人材や設備を備えるマサチューセッツ工科大学に勝る大学は、ほとんど考えられない。

ノイマンは、学長との最終面接を終えて、承諾寸前まで話を進めた。年俸は、当時の大学教授としては破格の15000ドルである。長期にわたってノイマンの招聘に手を尽くしてきた数学者ノーバート・ウィーナーは、「ジョニーがたった今面接を終えて、帰ったところだ。もう、ほとんど間違いない。私たちの成功を誰もが喜んでいる」と書き残している。

シカゴ大学は、新たに「応用数学研究所」を設立して、ノイマンに人事や研究方針を自由に裁量できる「所長」の地位を提供しようとした。戦後、ロスアラモス国立研究所にいた多くの研究者たちが、シカゴ大学の「原子核研究所」にポストを得ていた。ノイマンと話の合う物理学者エンリコ・フェルミの名を冠した研究所である。

マンハッタン計画を一緒に推進した仲間たちと研究を続けるという意味では、シカゴ大学で研究所長になるのがベストだった。

ハーバード大学の学長ジェームズ・コナントは、プリンストン高等研究所の所長フランク・エイデロッテに、丁重な書簡を送った。彼は「私たちは、貴研究所のフォン・ノイマン教授に重大な関心を抱いております」と述べ、「どのようにすれば私たちが彼を獲得できるのか教えていただきたいのです」と問い掛けている。

通常の手段ではノイマンを獲得できそうになかったので、コナントは、ボス同士の話し合いで一挙にノイマンを招聘しようとしたのである。

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