教育の「そもそも」を問い直すことで、公教育の目指す形が見えてくる

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山口 裕也 プロフィール

もう一度すべてを「底」から考え直す

元をたどれば、複雑で多様に思えるさまざまな問題は、すべて、ある、たった一つの「根」から出てきているのではないか。つまり、私たちに必要だったのは、問題に対処するための個々具体な「やり方」を考える前に、もう一度すべてを「底」から考え直すことだったのではないか。

そうして私は、この底とするべき「考え方」を、次のことに求めました。

「どんな生き方であれ、わたしはわたしが生きたいように生きたい」

私たちは、誰もがみな、心の奥底ではそう願っています。このことは、自身に問いかければ、みなさんもきっと確かめることができるはずです。

この「『自由』に生きたい」という「願望(欲望)」は、私たちが何かを思ったり考えたり、行動したりすることを理解するうえでの一番の「根っこ」です。だから、教育や学びについても、やはり、ここを底に考え始める必要があります。

再び「当たり前」のことを言いますが、例えば私たちは、興味も関心もないことを「学びたい」とは思いません。それでも強引に、しかもみな同じように何かを教え込まれれば、選択肢は「従順」か「反発」かしかなくなります。

反発は、あるときには「いじめ」となり、クラスの誰かに向かうかもしれません。従順は、とにかく頑張る子が極度に疲れてしまい、あるとき「不登校」に結びつくかもしれません。

仮に学びたいことでも、指示されたとおりの方法で学ばなければならないとすれば、それが苦手であるにもかかわらず、一生懸命、従順にやった子がそのことで逆に「特別な教育ニーズ」があると見なされることさえもあるでしょう。こんなことになれば、教員もますます疲弊していくばかりです。

人間の「本性」と言うべき、自由を求める願望。

要するに、これに逆らったところで、子どもにも教員にも何もいいことはないのです。そんなことを続けても、最後はたがいに「無視」や「不干渉」に行き着くのが関の山です。

 

「公教育の構造転換」を目指す

さて、このように考え方を定めたうえで次に分かることは、とは言うものの、現実の世界でこの願望を実現するのはそうそうたやすいことではないということです。冒頭のような「そんなことはできない」という反応がすぐに返ってくるのも、そのことを身にしみて分かっているからでしょう。

世界には、自分とは異質で多様な「人・物・事」が存在します。人はそのような「人・物・事」との出会いから、さまざまな「段差」につまずくことになるのです。

そう、学びとは、この「段差」を乗り超えるために必要な「資質」や「能力」を獲得することで、人に成長を促すための営みなのです。そして、「成長」とは、何よりもまず、学びを通して資質や能力を獲得し、「わたしが生きたいように生きる」自由を拡大していくことなのです。

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つまり、大人や子どもの別なく人は、「生きたい」という本性ゆえ、「自ら学ぶ力」をもっています。しかし、これもまた「どんな生き方であれ」という本性ゆえ、放っておけば、どんな方向にも(つまり間違った方向にでも)学び成長してしまいます。

とすれば、みなが違う存在であることを十分に踏まえたうえで、それぞれがもつ自ら学ぶ力を最大限に生かしつつ、「よりよく」成長する「支え」となる。

それが、教育のやり方を考えるうえで、もっとも大切なポイントになるはずです。

私は、ここから、すべてを考え直していくことにしました。

「では、『よりよい』成長とは、どういうことなのか」

「それは、どのような『学び』を通して実現するのか」

「その支えとなる『人』は、『場』は、どう在ればいいのか」

「学びと人と場を届ける公的な機関、つまり『行財政』にはどんな課題があるのか」

「これらを考えるうえで、これからの『時代』をどう捉えればいいのか」

「そもそも、『公』教育とは、『よい』公教育とは何なのか」

これらを考えていった先に、公教育をよりよく変える、すなわち、「公教育の構造転換」を実現できると考えたからです。

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