Photo by iStock

教育の「そもそも」を問い直すことで、公教育の目指す形が見えてくる

最新刊の「はじめに」を全文特別公開!
教育の「そもそも」を問い直すことで、これからの教育政策のあるべき姿が見えてくるーー杉並区教育委員会のスタッフとして公教育の実践に携わってきた山口裕也さんによる最新刊『教育は変えられる』から『はじめに』を特別に全文公開します。

関連記事:『気鋭の教育行政官が描く、「教育を変える」ための設計図』

     『教育は、変えられるーー授業改善ではなく、学びの構造転換を!!』

そもそも、教育は何のためにあるのか

教育は、変えられる

今、私は、そう確信しています。

—「そんなこと、できるわけがない」

こう言うと、すぐにそのような反応が返ってくることが予想できます。

けれど、考えてもみてください。

広がる学力格差。増加するいじめ。減らない不登校。拡大する特別な教育ニーズ。そうしたことの総体として、機能せずに荒れる学級……。

教員の過酷な労働の原因にもなっているこうした教育の問題がいまや限界に達していることは、誰にも否定できないはずです。

では、どうすればよいのか。

私は、杉並区教育委員会のスタッフの一人として(このことについては後述します)、ある、「そもそも」を問い直すことから始めました。

「そもそも、教育は何のためにあるのか」
「教育に、国、地方自治体をはじめとした公的な機関が携わるのはなぜなのか」

その答えは、とてもシンプルなものです。

「自らの道を拓く『自立』と、誰もが共に生きる『共生』のため」
「自立と共生のための『学び』を、『すべての人』に届けるため」

自立と共生は、「支え合い」の関係にあります。誰もが共に生きられる世界があればこそ、すべての人が自分の道を拓くことができます。自分の道が拓かれていく実感の中でこそ、すべての人が共に生きることのできる世界の大切さが分かります。

Photo by iStock

そう、教育には、公的な機関が携わることで、すべての人が学びの機会を確実に得られるようにし、一人一人が自らの道を拓けるようにする意味と、みんなが共に生きられるようにする意味があります。この二つの意味を、分かつことなく支え合うようにして満たすこと。それが、教育の目指すところなのです。

 

教育の「当たり前」を問い直す

そうしてこの問い直しは、現在の「公教育」、とりわけ「学校教育」について、私たちに、根本的な「反省」を呼び起こすことになりました。

「私たち大人は、子どもたちが『教えなければ学べない』と考えて、何もかも教え込もうとしてきたのではないか」

「『みなが同じ内容を、同じペースで、同じ方法で学ぶ』という現在のやり方を、決して変えることのできない固定観念としているのではないか。あたかも、それが唯一の教育の目標=終着点であるかのように」

よく考えてみれば、私たちはみな、一人一人違う存在です。一人として他人と同じ人はいませんし、それどころか、一人の人の中にもいろいろな側面があるものです。

当然、子どもたちも同様です。みな、生まれも育ちも違っているのが当然だし、得意なことも苦手なことも違います。こう言うと、「そんなことは当たり前」だと思うでしょう。ところが、いざ現場の実践に落とし込む段になると、この「当たり前」がすっかり抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

このことに思い当たったとき、私に、ある、一つの「ひらめき」が生まれました。

関連記事