私が思うこと、みんなもそうでしょう?

あたかも「普通党」の既得権益かのように、普通を盾に要求もしてくる。傲慢さも産むことがある

例えば、パートナーが育児に参加するのは今の時代、普通でしょう?

「私は育児をパートナーとともにしたい」【私はそうしたい】ならわかるが、自分ごとに関係のない大多数の人を巻き込む言い方【普通はそうだ】は、自分で責任を負いたくない人任せな感じが出ている気がするからだ。「私だけの意見じゃない。みんな、そうでしょ」と。

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そして、実は少数意見だったとしても、たくさん同じ意見の人はいる、と数を大きく見せたいという意図も感じてしまう。そして、あたかも正義のように使われてしまう。

正義は、裏を返せば他を攻撃しても良い理由になり得るから怖い

でも、たくさんの視点を持ったときに、普通など存在しない。平均は存在しても、そして、多数の意見が存在しても、正義と同類語としての「普通」はないのだ。

写真提供/バービー

普通からあぶれる=劣る、とする危うさ

番組打ち合わせの時に、これから会う共演者について、「彼女、頭が悪いのでサポートしてあげてください」と言われるケースがごく稀にある。そう言われて、いざ会ってみると、聞いていた話と違い、とてもクレバーで自分の哲学を持っている魅力的な人であることが多い。「独特な考え方=頭が悪い」とジャッジされてしまうのだ。ブレイクする前のタレントさんは、こうやって、悠々と他人の予想を飛び越えて売れっ子になっていく。

私はフォローするどころか、あっという間に、背中を確認するのがやっとになる。異質すぎても、自分のやりたいことがはっきりしていて説き伏せても、無駄だと思わせる人は、攻撃されずにいられるし、自信を持って生きていけば、羨望に変わることもある。

「普通からあぶれている」ことや、自分の理解できないことを、劣っていると見なす『普通の人』の怖さ。普通の体型、普通の社会人、普通の家庭etc...

「普通であるか?」という軸でしかジャッジできない視野の狭さのほうが、とんちんかんだ。自ら枷をかけにいってるように見える。