コンピュータ、原子爆弾を開発…フォン・ノイマンの天才すぎる生涯

マッド・サイエンティストの素顔とは?
高橋 昌一郎 プロフィール

京都への原爆投下を強く主張

当時の日本の軍部の合言葉は「一億玉砕」と「一人十殺」だった。ハリー・トルーマン大統領は、「非人道的兵器」の使用を躊躇(ためら)ったが、最終的には日本に原爆を投下することを決定した。5月10日にロスアラモスで開かれた「標的委員会」では、ノイマンは、科学者を代表して原爆の爆発高度を選定するという重要な立場で出席した。

 

空軍が目標リストとして「皇居、横浜、新潟、京都、広島、小倉」を提案した。ここでノイマンは、皇居への投下に強く反対し、もし空軍があくまで皇居への投下を主張する場合は「我々に差し戻せ」と書いたメモが残されている。

ノイマンは、戦後の占領統治まで見通して皇居への投下に反対したのであって、事実そのおかげで日本は命令系統を失わないまま3ヵ月後に無条件降伏できた。その意味で、ノイマンは無謀な「一億玉砕」から日本を救ったとも考えられる。

その一方で、ノイマンが強く主張したのは、京都への原爆投下だった。ノイマンは、日本人の戦意を完全に喪失させることを最優先の目標として、「歴史的文化的価値が高いからこそ京都へ投下すべきだ」と主張した。

これに対して、ヘンリー・スチムソン陸軍長官が、「それでは戦後、ローマやアテネを破壊したのと同じ非難を世界中から浴びることになる」と強硬に反対したため、京都も却下された。

すでに通常爆撃で破壊されていた横浜が却下され、情報不足から新潟が除外された。最終的に、広島・小倉・長崎の順に2発の原爆が投下されることに決まったのである。

我々には君が必要だ

1955年7月、ノイマンは、左肩の強烈な痛みによって、突然、倒れた。診断の結果、左肩鎖骨に腫瘍が発見されたが、それは、別の部分で発症したガンが血液の循環によって骨に転移したものとわかった。何度か立ち会った核実験で浴びた放射線が、ガンの原因だと言われている。

それでもノイマンは、痛みに耐えて大統領科学顧問を務めた。救急車で原子力委員会に出席したこともあった。1956年2月、「合衆国自由勲章」を授与された際には、車椅子で授章式に出席した。ドワイト・アイゼンハワー大統領は、ノイマンの襟に勲章を付けながら、「我々には君が必要だ」と言った。

ノイマン(右)に合衆国自由勲章を授与するアイゼンハワー(photo by gettyimages)

この年の10月、ハンガリー動乱が生じた。当時のソ連は戦車で軍事介入し、蜂起したブダペスト市民ら数千人を殺害した。生地を蹂躙(じゅうりん)されたノイマンは、一刻も早く合衆国からソ連へ先制核攻撃すべきだと強硬に主張した。

スタンリー・キューブリック監督の風刺映画『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』には、車椅子に乗る大統領科学顧問ストレンジラブ博士が登場する。そのモデルはノイマンだと言われている。

全身にガンの転移したノイマンは、ワシントンのウォルター・リード陸軍病院に入院した。彼の病室は、大統領の病室と同じ病棟にある特別室だった。

その光景を、ルイス・ストロース原子力委員会委員長は、「もともと移民だったこの50代の男のベッドの周りを、国防長官、国防副長官、陸・海・空軍長官、参謀長官が取り囲んで座っているという、驚くべき構図」だと述べている。

ノイマンの臨終が近づくと、鎮痛剤によって譫言(うわごと)を言うようになったため、軍の機密を口走らないように監視が付いた。1957年2月8日、ノイマンは逝去した。

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