コンピュータ、原子爆弾を開発…フォン・ノイマンの天才すぎる生涯

マッド・サイエンティストの素顔とは?
高橋 昌一郎 プロフィール

コンピュータと原爆の開発

1940年9月、ノイマンは、陸軍兵器局弾道学研究所の諮問委員に就任した。士官採用されなかったとはいえ、試験成績は最優秀だったため、厚遇されたのである。

ノイマンが弾道学研究所に提出した機密論文「逐次差分の発生確率誤差の評価」では、標的に弾丸を当て損なった場合、次にどのような狙いをつければよいか確率計算する方法を示している。

現在の戦闘機から発射されるミサイルは、地上で動く人間を狙えるほど精度が高いが、その方法もコンピュータ自動制御理論も、ノイマンの導いた原理に基づいているのである。

 

ヨーロッパ圏ではナチス・ドイツ、アジア圏では日本が進撃し、連合国側の戦局は悪化しつつあった。1941年12月、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した。日米開戦後、プリンストン高等研究所は、合衆国の「国家非常事態管理局」に全面協力することになった。

ノイマンは、戦争省から「科学研究開発庁」の公式調査官に任命され、爆発研究の科学技術面の最高責任者となった。これによって、ノイマンは、陸軍・ホワイトハウス・戦争省に直結する3つの機関の重要関係者となったわけである。

1942年になると、海軍兵器局の顧問に就任したノイマンは、機雷戦に対処する方法から出発して、衝撃波の研究を行うようになった。

機雷の衝撃波を検証するためには、連続的に変化する非線形の衝撃面の状態を記述する偏微分方程式が必要であり、その方程式を解くためには、膨大な計算が必要になる。そのためにノイマンが中心になって進めたのが、コンピュータの開発だった。

一方、この年の9月に46歳のレズリー・グローヴス准将が原子爆弾プロジェクトの責任者に任命され、彼は38歳のカリフォルニア工科大学教授ロバート・オッペンハイマーをロスアラモス国立研究所の初代所長に任命した。

オッペンハイマーは、アメリカ各地の大学や研究機関を廻って、トップクラスの数学者と物理学者を集めて、「マンハッタン計画」を開始した。そこでノイマン、ウィグナー、シラード、テラーの四人の天才ハンガリー系科学者が集結したのである。

人間離れした高度な知能から「火星人」と呼ばれた彼らがいなければ、原爆開発は短期間では成功しなかったに違いない。

ここでノイマンが中心となって推進したのが「爆縮型」原爆の設計である。これはノイマンが発見した重要な理論の一つだが、原爆の威力を最大限にするためには、落下後に爆発させるのではなく、上空でプルトニウムに点火させる必要があった。

そこでノイマンらが考えたのは、臨界点に達していないプルトニウムの周囲に三二面体型に爆薬を配置して、一定の高度で爆薬に点火、その爆発の衝撃によってプルトニウムを臨界量に転化させる方式である。

彼らは、この一連のプロセスを正確に制御するための複雑な数値計算を半年かけて行い、その設計は1944年末に完成した。

1945年7月16日、世界初の原爆実験(photo by gettyimages)

1945年7月16日、ニューメキシコ州ソコロの南東48キロ地点の砂漠で、人類史上最初の核実験が行われた。関係者の多くは、その威力に半信半疑だった。テラーは、TNT4万5000トン程度と強気だったが、オッペンハイマーは控え目にTNT30トン程度と見積もっていた。

結果はTNT2万トン近くの破壊力で、「人口30万〜40万人の都市を焼け野原にできる威力」と表現された。ノイマンは、核実験の準備がうまくいった時点で満足して、すでにプリンストンに戻ってコンピュータ開発に取り掛かっていた。

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