私は74歳になった。哲学を志してから54年が経つ。そのあいだ、真理がわずかでも姿を現してくれたであろうか? そうは言えないように思う。
若いころは、カントをはじめ大哲学者たちの思索の高みに達することができたら、真理はより自分に見えてくると思っていたが、どうもそうではないらしいという予感が50歳を越えるあたりからじわじわと自分の体内に広がってきた。
とはいえ、進歩していないわけではない。若いころの「浅はかさ」は痛いほどわかるようになり(私は哲学においてとくに晩生なので)、還暦を過ぎても古稀を過ぎても、不思議なほど「進歩する」ことをやめないのである。
むしろ、「若気の至り」を痛感するからこそ、当時わずかにでも解けたと思った問題は、じつのところ解ける糸口にも達していないこと、しかも、たとえそれが解けたとしても、その向こうにはさらに難問が控えていることが、体験的にわかってきた。哲学とはそういうものだ、ということがわかってきたということである。
それにしても、われながら不思議なことは、私は卒論でカントを選んで以来、50年以上にわたって、カントを手放さなかったことである。「不思議」とは、私はカントの超越論的観念の基本構造には自分なりに賛同したとしても、その理性主義(本書を読めば次第にわかってくれるであろう)には、ずっと違和感を覚えていた。
まして、カントという人間は、(私の学生時代には、カントをまさに哲学者の鑑として崇拝するカント学徒も少なくなかったが)私にとって長いあいだ「ああはなりたくない」典型であった。
では、なぜそれにもかかわらずカントなのか? こういう問いに答えようとすると、つい無から有を産みだすような、すなわち心の片隅にもない説明のための説明をもってきてしまいがちだが、そうならないように警戒に警戒を重ねたうえで、少なくとも次のことは言えよう。
かつて、本郷で岩崎武雄先生の『純粋理性批判』の演習に出ていたが、眠くなるような退屈な授業の中で一つだけ鮮明に憶えていることがある。それは、「カントの哲学的な問いに対する解答はそれほど優れたものではないが、その問いはすばらしい」という先生の言葉である。50年間カントを読んでまったくその通りだと思う。