性の問題を語る人=特別な人が性教育を妨げる

日本では性というと性行為そのものばかりがイメージされやすいが、それだけでなく、性教育や避妊なども含み、これらは25年以上も前から全ての人にとって重要な「性と生殖に関する健康と権利」(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(SRHR)として世界的に認められている話のはずだ。

要は「性なんていうタブーを話すんだから、性暴力や中絶、性産業への関与など、性に関して何かしら経験をしているはずだ」言い換えれば、「何か相当な経験がなければわざわざ性に関することなんて話さないだろう」「“普通”は性に関して深く知ったり考えたり発信したりなんてしないはずだ」という考えが、無意識の中に刷り込まれているのではないかと思う。

だから私が、ひと通り活動のきっかけを話してもなお「なにかもっとあるのでは?」と質問を浴びせされ続けると、居心地が悪くなると同時に、これこそ変わって欲しいところだなあとつくづく感じてしまうのだ。

もちろん、性に関して取り組む人の中には、実際に暴力を受けた経験や傷を抱え、他の人には同じ思いをして欲しくないと活動する人も大勢いる。私はそういった方々を心から尊敬している。

とはいえ、誰も性を通じて傷つくことがないように、誰もが自分の体を自分で決める手段を持てるように、と動くことは、傷ついた経験がある人に限らず、誰にとっても重要なことのはずだ。それなのに、「性について真面目に考えるのはよっぽど何かがあった/ある人」という考え方があることで、様々な面で、私たちの健康、権利が害されているように思うのだ。

もちろんつらい経験から性問題や避妊問題の活動を始める方もいる。でも、そうでなくても性と健康の権利(SRHR)を語れる社会に変えていかないと。photo/iStock