性の問題に取り組むには「理由」が必要?

その中でありがたいことに、私の取り組みについてインタビューを受ける機会も頂いてきた。その際、必ずと言っていいほど聞かれるのが「そもそもなぜ性に関わることに興味関心を抱いたのですか」という質問だ。もちろん、こういった質問が出るのは自然なこと思う。

私が吉原遊廓に興味を持った発端は、着物好きに始まる。なぜ着物が好きかと言われればそれこそわからないが、18歳の頃、成人式で花魁風の衣装が流行っているというニュースを見て、「遊廓って何?」とその存在を知り、気づけばそこで生きた女性たちの昔の手記を読むことに没頭していた。

その後、大学在学中に交換留学で訪れたスウェーデンで、性に関わる部分でも若者を守ろうとする環境の手厚さに驚愕し、感銘し、それがきっかけとなり、日本で起こっている性教育や避妊に関する問題に向き合うことになった。もちろん、そこで受けた衝撃の大きさは、その前から性を通じて苦しむことの意味を、遊廓で生きた女性の手記などからも学んでいたからこそであっただろうとは思う。とはいえ、それ以上でもそれ以下でもなかったりする。

こういった説明をすると、「そうなんですね」で終わる方ももちろんいるが、中には「でもなぜ手記に没頭したのですか、性や避妊という話しにくいことになぜそんなにこだわるんですか?」「ご自身で実際になにか、つらい経験をされたこともあったんですか?」と、質問を繰り返しされることが多々ある。

私はその度に、いつも複雑な気持ちになる。自分の健康について、権利について話すことは、そんなにも奇異なことだろうか? 何か特別な理由や体験がなければ、話すのもおかしいことなのだろうか?

性を語る人は特別、他と違うという見方は、偏見的な思考を産んでしまうことも。photo/iStock