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トランプ時代終焉、コロナ感染爆発…多くの人が知らない「不寛容」の正体

最低限の礼節を対話への第一歩に

不寛容の時代である。コロナ感染の爆発的な流行で、とげとげしい非難の声が街に満ちるようになった。単に不寛容であるというだけではなく、それを隠すそぶりも見せず、むしろ不寛容なことが自分の権利の一部であるかのように言い募る人もある。ストレスを抱えた社会は、右や左といった立場の違いにかかわりなく、不寛容の相貌をそこかしこで露わにする。

昨年末に『不寛容論』(新潮選書)を出版した。意外なことに、寛容を論じた本は多いが、不寛容を論じた本は少ない。寛容はよいことで、不寛容は悪いことだ、と相場が決まっているからかもしれない。だが、寛容と不寛容は、それほどきっぱりと二つに分けられるものだろうか。

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寛容より不寛容の理解を

不寛容を論じたのは、もちろん不寛容を勧めるためではない。むしろ、寛容の中に必ず含まれている不寛容の要素に光を当て、それを意識的に自覚することで、今の世の中で寛容を維持するにはどうしたらよいかを探るためである。

従来の寛容論が何となく敬遠されがちなのは、それが「よい子」の唱えるお題目に聞こえてしまうからである。寛容を絶対善と信じて不寛容な人に寛容を説くのは、よくて効果の乏しいお説教だろうし、悪くするとそれ自身が「寛容の押しつけ」という不寛容に転じてしまう。

近年のイスラム世界を苛立たせてきたのも、この「寛容の強制」という逆説だった。寛容は、近代西洋のリベラリズムに固有の価値だが、それを共有しない文化は野蛮で遅れていると見なされ、文明社会の仲間にも入れてもらえない。しかし寛容は、どの文化にとっても常にいちばん大切な価値であるとは限らないだろう。

実は、寛容は不寛容なしには成立しない。寛容の中には、常に不寛容が潜んでいる。そのことの自覚が十分でないと、寛容論は空疎になる。寛容の輪郭を定め、寛容を寛容として存在させているのは、不寛容である。寛容を説く場合にも、不寛容な人がなぜ不寛容なのかを、その人の目線に沿って理解できないかぎり、お互いの対立は深まるばかりだろう。大事なのは、寛容よりも不寛容の理解である。

不寛容を理解することは、それを是認することではない。不寛容が偏見を根拠にしていたり差別を助長したりするならば、もちろん是正されねばならないだろう。だが、人はすべてのことに対して寛容であることはできない。自分が大切に思うものは誰にでもあり、その大切なものは人によってそれぞれである。だから、どんな人でも、寛容と不寛容とを併せもっているものである。このことは、個人だけでなく社会や文化や国家といった集団にもあてはまる。

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