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2021年の小池百合子、都知事を辞任し衆議院選出馬はあるのか?

『女帝 小池百合子』を読む(2)

隠れたテーマとしての「ミソジニー」

石井妙子氏は『女帝 小池百合子』の最終盤で、こう書く。

「女性初の防衛大臣、都知事、さらには総理の座にも手をかけようとする女性の誕生を今、同時代を生きる者として目にしている。それなのに、気持ちは重く塞ぐばかりだ。彼女の快進撃を女性の解放として、女性が輝く権利を手にしたとして、これまでの女性たちの苦難の道の末に咲かせた花であるとして、受けとり、喜ぶことが、できない。女性たちには、より高い教育、より自由な環境が与えられたはずであるのに、その歩みはどこへと向かっているのだろう。これは社会を主導してきた男の罪なのか。それとも女の罪なのか。戦後女性の解放の、これが答えなのかと考えさせられ、答えが出せないでいる。」

石井氏は『女帝』の執筆にあたり、小池氏の著書や都議会での議事録なども読み込み、フェミニズムの観点から、女性学研究者の田嶋陽子氏にも話を聞いたという。都知事選に関する毎日新聞のインタビューでもそのことに触れている。

「そこで浮かび上がってきたのは、永田町という究極の男社会の中で、居並ぶ男たちと対立せず、むしろすり寄ることで、より高い地位を目指そうとする女性政治家の姿」であるとしているが、別にそれは田嶋氏に聞かずともわかるだろう。

その上で石井氏は、「小池氏は男性中心社会が作り出してしまったスターであり、モンスターだと思います。男社会とは正面から戦わず、男の人にひっぱってもらって泳いできた」という。

そして、小池氏の「活躍」は男性社会が作り上げたものであり、決して実力ではない。男を踏み台にして得た鑞(ろう)で作った「イカロスの翼」で太陽に近づいていく小池氏は「自分たちとは違う」と、論を展開していく。そこに、ゆがんだミソジニーを感じるのは私だけだろうか?

 

社会学者・江原由美子氏はミソジニーの概念を説明した上で、女性政治家に対するメディア上の「ミソジニー」についてもこう言及している(参照「『ミソジニー』って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?」)。

「彼女たち(アメリカのヒラリー・クリントンやオーストラリアのジュリア・ギラード)は国のトップに立った、あるいはそこを目指した政治家であった。それはつまり、家父長制秩序においては、女性として男性に与えるべきとされている称賛や尊敬、援助・気遣いなどを、男性に与えないだけではなく、逆に、女性である自分自身に与えるように、要求することであった。
 だからこそ、彼女らは、「強欲である」とか「ずるがしこい」等の、同じことをしている男性候補者には決してなされない非難を、男女の選挙民から、大量に受けることになった」

女性に関わるメディア報道、特に女性についての政策や女性政治家に関する報道に見られるミソジニー。

斎藤氏が「フェアじゃない」とするのも、そこにあるだろう。そもそも『女帝』という、大仰な、決して歓迎されない称号を書名とすること自体に違和感を持つ。