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失われた過去とともに私たちはどのような現在を生きているのか?

DIG 現代新書クラシックス(2)
群像×現代新書のコラボ企画「DIG 現代新書クラシックス」の第2弾(『群像』2月号掲載)。今月は中島義道著『「時間」を哲学する 過去はどこへ行ったのか』を気鋭の哲学者・山口尚氏が論じます。過去が〈不在〉としてリアリティをもつ現在、私たちは一体どのような時間を生きているのか?

0 『「時間」を哲学する』の精神を摑み出す

時間なるものを理解するやり方のひとつに「現在中心主義」と呼べるものがある。

この立場によれば、一切の存在はすべて根本的には現在のうちにあり、例えば現在における想起(すなわち思い出すこと)という活動が過去を構成する。

例えば私は《自分は昨晩カレーを食べた》と考えているが、こうした過去は決してそれ自体で存在するものではなく、むしろ現在私がそれを思い出す限りにおいて存在する、ということだ。

こうした現在中心主義にはいろいろなバリエーションが存在しており、それぞれ特色を具えている――とはいえ中島義道の『「時間」を哲学する』はこのタイプの時間論を批判する。なぜなら、後で再度確認するように、彼は《現在中心主義がいわば過去のリアリティをそれとして把握できていない》と考えるからである。

過去は、中島によれば、たんに思い出されるもの以上のあり方で存在している。もちろん過去はもう無い。ただしそれは現在のうちにあるもので「説明し尽くされる(be explained away)」ものでもないのである。

この論考は、講談社現代新書の作品を読み直す企画の一環として、中島の『「時間」を哲学する』を読む。なぜ本書かと言えば、その理由は不惑を過ぎた私自身にとって心に刺さる示唆が含まれているからである。

たしかに哲学書は〈普遍性〉を志向するものであり、私よりもずっと若いひとが同書を読んでもいろいろと学ぶところがあるだろう。とはいえ過ぎ去った時間の長さが事柄の理解を深めることもある。私がこの本を初めて読んだのは20年くらい前である(と思い起こされる)が、私は今いよいよ中島がそこで提示する世界観への分かりみを深くしている。

 

今回の企画は「読む」ということに焦点が合わせられているので、本題へ進む前に〈読むこと〉に関する私の理解を述べておきたい。

私にとって哲学論文や哲学書を読むことは、そこで展開される議論の全体に通底する精神を摑み出すことである。

ただ書き手の言葉を追うことに終始するのではなく、彼女あるいは彼が立つところの視点に入り込むこと。そこから見える眺めに与ること。書き手の立場を「……主義」と分類するに留まらず、その神髄を魂に響く水準で把握すること。

かくして私は、以下の文章において、『「時間」を哲学する』の精神を摑み出すよう努める。

私がその作業に成功しているか否かの判断は本論考を読まれる方々へ委ねられるが、いずれにせよ私の意図ははっきりさせておきたい。すなわち、この論考は『「時間」を哲学する』の議論全体の背後に潜む精神を抽出することを究極の目標にする、と。

議論は以下の順序で進む。まず中島の批判のターゲット(のひとつ)である現在中心主義の時間論の実例を見る(第1節)。そのうえで〈過去〉に関する彼の立場を確認し、その精神を取り出す(第2節)。

なお以下で参照されるページ番号はすべて『「時間」を哲学する』のものである。

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