さらには、公教育自体の構造転換へ
けれど、誤解のないよう、言っておかなければならないことがあります。それは、学びの構造転換が、あくまでも「始まり」にすぎないということです。
学びは、先の事例からも明らかなように、先生をはじめ、その支えとなる「人」がいて、初めて充分なものになります。学び手にもその支え手にも、活動のための「場」が必要なことは言うまでもありません。さらに、「学び」と「人」と「場」を全ての子どもが確実に得られるようにするためには、国や自治体などの「公的な機関」が必要です。
そう、教育をよりよく変えるためには、学びの在り方を変えるだけではダメなのです。
別の言い方をすれば、全ての子どもの学びの在り方を望ましいものに変えるためにこそ、その支えとなる人や場、公的な機関が必要になるのです。
では、人や場、公的な機関は、一体、どうあればいいのでしょう。現在の在り方の、どこに、どのような問題があって、どのように変えていけばいいのでしょうか。
拙書、『教育は変えられる』は、こうした疑問に答えるためにこそ書きました。
その一番の趣旨は、公教育政策の「全体」を「順序よく」考えていくことです。
それゆえ本書が掲げる最終的な目標は、「公教育の構造転換」です。本書では、杉並区教育委員会の取組を事例に、基礎自治体の義務教育政策において教育をよりよく変えるための「考え方」を示しており、学びの構造転換は、その「最初の一歩」として提案しています。
「教育は、変えられる」。
教育を変えていく道程は、きっと、険しいものでしょう。個人には個人の、学級には学級の、学年には学年の、学校には学校の、地域には地域の、あるいは教科には教科の・・・といったように、それぞれが、それぞれの道を歩かなければならないからです。
けれど、教育をよりよく変えるための考え方さえあれば、どんな道であっても、必ずその考え方が「ガイド」になってくれます。自分に必要な「やり方」を、自分たちでつくり出すための「支え」になってくれるのです。

本書が、みなさんのガイドや支えとなり、かつ、考え方を知って身に付けた人たち同士を「つなぐ」ものになれば、著者として、これに代わる喜びはありません。
そのとき、教育は、もう、変わり始めているはずですから。
子どもも、先生をはじめとした大人も、誰かに「管理」されなくたって、自分のことを自分で選び、自分たちのことを自分たちで決めて、しっかりやっていくことができる。
それは、ひいては、自分たちの生きるこの世界を、自分たちの手でよりよくしていくことにつながる。いや、むしろ、そこに「自由」があればこそ――。
だから、私は、今、こう確信しています。
「教育は、変えられる」。