筆者が出会った元戦闘機搭乗員たち。全員が搭乗員になるにあたり、人相見による適性検査を受けている

驚愕! 日本海軍が搭乗員適性試験で採用した人相見の驚異の的中率

あの戦争の開戦と終戦も予見していた

知能、身体検査の後に、手相、人相、骨相を見る

「昭和18(1943)年9月13日、土浦海軍航空隊に仮入隊し、次の日から連日、搭乗員としての適性検査や知能検査、身体検査が続きました。驚いたのは、最後に手相と人相、骨相(頭の形)まで見られたことです。実際に、この手相・人相の結果は搭乗員の適否にはよく当たるという話でしたが、中年の人が5~6人列んでいる部屋で、じろじろ見られるのは、あまりいい気持ちではありませんでした。私は幸い合格したので文句は言いませんが、これで不適にされる者もいるとは、何か割り切れないものを感じました。合理的が売り物のような海軍にも、こんなことがあったのは不思議ですね」

と、豊島師範学校から海軍飛行専修予備学生十三期生として海軍に入り、のちに零戦搭乗員として沖縄戦や本土防空戦で出撃を重ねた土方敏夫(大尉。1922‐2012)は回想する。

土方敏夫大尉(零戦搭乗員。戦後、成蹊学園中高校教頭)

土方だけではない。海軍では、支那事変(日中戦争)が始まる前年の昭和11(1936)年から、全ての飛行機搭乗員の適性検査に、当時としてもおよそ時代遅れに思えた手相や人相、骨相による性格鑑定を導入していた。

 

海軍航空本部が決めたさまざまな検査項目の理由が、現場、ましてや受験者に説明されることはないから、検査する側の航空隊幹部にも、今川福雄大佐のように、

「予科練の三重海軍航空隊飛行長の頃、よく彼と接していましたが、『なんだ、易者が』と軽視していた」

と率直に打ち明ける人もいるし、検査された側にも、

「海軍兵学校の入校式では、校長の松下元少将が訓示で、兵学校教育の目標について、『科学者たる武人を養成するにあり』と明言されたのが印象的でした。海軍兵科将校は、単なる文武の人ではなく、科学の知識を備え、その粋を集めた兵器を合理的に活用できなければならない、ということです。ところが、飛行学生となり、操縦、偵察に分ける適性検査に人相見が出てきて、海軍はなんと古くさいことをやるのかと驚きましたよ」

と回想する、黒澤丈夫(少佐、1913‐2011。戦後、群馬県上野村村長)のような人もいた。

黒澤丈夫少佐(零戦搭乗員。戦後、群馬県上野村村長)

ではなぜ、海軍は、当時の科学の粋を集めた飛行機の搭乗員の選考に「人相見」を導入したのか――。

きっかけは、事故多発による殉職者の増大

アメリカで、ライト兄弟が初めて動力飛行機による飛行に成功したのが1903(明治36)年。7年後の明治43(1910)年、徳川好敏、日野熊蔵の両陸軍大尉が、代々木練兵場で日本で初めての飛行に成功した。その後、日本の陸海軍では航空機を戦力として育てようとする動きが徐々に動き始め、海軍では明治43年から45年にかけ5人の士官を海外に派遣、操縦を習わせたのを皮切りに、大正元(1912)年には「航空術研究委員」の肩書きで、年に数名ずつ操縦員の養成を開始する。

 

航空術研究委員時代の草分け的パイロットのなかには、本稿でのちに登場する桑原虎雄大尉(4期。のち中将)や、「特攻生みの親」とも呼ばれる大西瀧治郎大尉(6期、のち中将)らがいた。大正5(1916)年に横須賀海軍航空隊が開隊されると、航空術研究委員は「航空術学生」(のち飛行学生)となり、また、大正3(1914)年、当初は士官のみだった講習員に下士官を試験的に採用したことをきっかけに、大正9(1920)年には、正式に下士官兵パイロットを養成する部内選抜の「操縦練習生」、昭和5(1930)年には全国から学力、適性ともに優秀な少年を集めて搭乗員として育てる「予科練習生」(予科練)制度が発足した。

桑原虎雄中将。海軍航空の草分け的な存在だった(昭和11年当時は大佐)
桑原に水野義人を引き合わせた大西瀧治郎中将(昭和11年当時は大佐)

黎明期の日本海軍航空部隊は、大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まると、連合国の一員として、商船を改装した水上機母艦(当時の類別は二等海防艦)「若宮」をドイツの租借地で、東洋における軍事拠点でもあった中国の青島沖に派遣、搭載機をもって爆撃に参加している。だが、当初は砲弾を改造した爆弾を飛行機にくくりつけ、投下点に達すれば紐をナイフで切断して爆弾を落とす、といった具合で、何もかもが手探りの状態だった。

第一次世界大戦後の大正10(1921)年から11年にかけ、日本海軍は航空先進国だったイギリスより、ウィリアム・フォーブス・センピル大佐を団長とする教育団を招聘し(【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411)、以後、急速に近代化が進むことになるのだが、当時の飛行機は技術的にも未熟で、とにかく事故が多かった。事故が起これば、かなりの確率で人命が失われる。これは、由々しき事態だった。

防衛省防衛研究所所収の海軍航空殉職者の名簿によると、大正4(1915)年から支那事変(日中戦争)が始まる前年、昭和11(1936)年までの22年間の殉職者総数は362名にのぼっている。なかには、第1期航空術研究委員(4名のうち2名)、第10期航空術学生(10名のうち6名)のように、クラスの半数前後を事故で失った例もあった。パイロットの養成人数が増えるにつれ事故も増え、昭和9年には51名、11年には100名と、いずれも過去最高を記録している。殉職者が100名ということは、当時の二つの航空隊が戦わずして全滅したようなものである。いかに事故を減らすか、ということは、航空部隊を戦力化するためにもぜひとも必要で、切実な問題であったのだ。

ここで登場するのが、昭和10(1935)年12月の異動で、海軍航空本部長に就任した山本五十六中将(のち大将)である。もともとは海軍の本流といえる鉄砲屋(砲術専攻)だった山本は、大正8(1919)年から10年にかけてと、大正15(1926)年から昭和3(1928)年にかけての二度にわたるアメリカ在勤、大正12(1923)年の欧米視察などの経験を通じて、日本に足りない石油資源の問題と、航空機の可能性に早くから着目していた。大正13(1914)年12月から1年間、霞ケ浦海軍航空隊副長を務めたのをはじめ、昭和3(1928)年12月から4(1929)年10月まで、空母「赤城」艦長、5(1930)年12月から8(1933)年10月までは海軍航空本部技術部長、8年10月から9(1934)年9月までは、第一航空戦隊司令官も務めている。

水野義人の採用を決めた山本五十六大将(昭和11年当時は中将)

殉職者の氏名を書き込んだ手帳をこっそり出して眺めては、涙を浮かべていたという山本にとって、航空事故の対策は悲願だった。事故原因については、機体そのものや整備の問題もあるが、搭乗員の適性問題も無視できない。飛行学生も操縦練習生も、予科練習生でも、採用するさい、学科試験や身体検査のあと、相当時間をかけて適性検査をするが、それでも事故はなくならない。東大の心理学教室に依頼して、実験心理学による適性検査も行ったが、結果は芳しいものではなかった。

関東大震災、支那事変を予見した25歳の青年

この頃、山本の下で航空本部教育部長を務めていたのが、大西瀧治郎大佐である。桑原虎雄中将の回想によると、昭和11(1936)年の夏のある日、霞ケ浦海軍航空隊副長だった桑原(当時大佐)のもとへ、大西が電話をかけてきた。

「自分の妻の父親が神田の順天中学校(注:順天堂大学とは無関係)の校長で、その教え子に少し変わった青年がいるから、会ってみてもらえませんか」

 

その青年は、水野義人といい、子供の頃から手相骨相の研究ばかりやっていて、日本大学文学部史学科の卒業論文のテーマも「太占(ふとまた)について」、飛行機の操縦が上手にできるような人は、手相骨相にどこか変わったところがあるはずだが、飛行機がよく墜ちるのは、十把ひとからげに搭乗員を採用するからではないか、と言っているという。

航空事故について、藁をもつかみたい心境でいた桑原が承知して待っていると、約束の日に水野が、大西の添え状を持ってやってきた。桑原は、航空隊の教官、教員120数名を集合させ、自らは彼ら一人一人の技倆を記した名簿を用意し、水野に、

「彼らの飛行機乗りとしての適格性を、甲、乙、丙の三段階に分けてもらいたい」

と申し渡した。水野は、一人一人の顔を5~6秒ずつ、じっと見つめると、次々に甲、乙、丙をつけていった。それを桑原が名簿と突き合わせると、驚いたことに83パーセントもの的中率を示していた。その後、練習生たちを集めて観相を行わせたが、このときも87パーセントが当たっていたという。

筆者が出会った元戦闘機搭乗員たち1。全員が水野義人の観相を受けた。激戦を生き抜いた人たちだが、顔相に共通項は見出せるだろうか。左上から時計回りに志賀淑雄少佐、岩下邦雄大尉、小町定飛曹長、佐々木原正夫少尉、渡辺秀夫飛曹長、田中國義少尉

桑原はこの結果について、「脅威に感じた」と回想している。航空隊のプロが、何ヵ月も何年もかけて評定したことを、航空のことなど何も知らない25歳の青年が、8割以上の確率で同じ判断をくだしてしまったのだ。冷やかしのつもりで集まった士官たちは、真剣に受け止めざるを得なくなった。

その晩、桑原は水野を霞ケ浦に泊めて、航空隊の士官たちと語り合わせた。水野はこのとき、戦闘機の名パイロットだった花本清登大尉(のち中佐)の結婚の悩みを言い当て、さらに、

「もう1年ぐらいすると、戦争が始まるんじゃないでしょうか」

と、予言を口にした。水野の言葉どおり、翌昭和12(1937)年7月、支那事変が始まった。予言が事実になったあと、桑原が聞くと、水野は、

「手相骨相に興味を持ち始めた子供の頃、東京で死相が現れている人が多く見られた。大阪に行くとそれがないので不思議に思っていたら、関東大震災が起きた。こんどの場合は、東京の街に、ここ1~2年の間に夫を失う、いわゆる『後家相』をした婦人がひどく目につく。これは天災ではなく、戦争であろうと判断した」

と答えたという。事実、事変が始まって間もなく、東京で編成された第百一師団が上海に派遣され、多くの戦死者を出している。

桑原は、すぐに大西に電話をかけ、水野を航空本部の嘱託に採用し、操縦員選考の参考にすることを提案した。大西としても、自分がとりもった縁であるから異存はない。さっそく大西が、桑原が書いた上申書を持って海軍省人事局や軍務局に赴いて交渉したが、

「いやしくも海軍ともあろうものが、人相で搭乗員の採否を決めることなどできるものか」

と、誰からも相手にされない。それで、桑原と大西が二人で、山本航空本部長の部屋を訪ね、水野の話をしたところ、山本はニコニコと話を聞きながら、

「よし、それじゃ、俺が会おう」

と水野を海軍省に呼んだ。山本の部屋には、軍令部や海軍省軍務局、人事局、航空本部の士官20人あまりが集められている。山本が水野に、手相骨相を見るというのはどういうことか、と尋ねると、水野は、「一種の応用統計学」だと答えた。

「それでは、ここに20名ばかり人がいるが、誰と誰が飛行将校かわかるか?」

山本が試すと、水野はたちどころに、星一男少佐(のち大佐)と三和義勇少佐(戦死後少将)、二人の海軍きっての戦闘機パイロットを言い当てた。このとき、一同は思わず顔を見合わせたという。そこへ、

「私も飛行機乗りだがね」

と、名乗り出た士官がいた。軍令部参謀の田口太郎少佐(のち少将)。水野は、改めて田口の手相を見て、

「あなたは飛行機乗りかもしれませんが、あまり上手なほうではありません」

と言った。ここで一瞬の沈黙ののち、一座の人たちが笑い出した。田口少佐は飛行艇のパイロットだったが、しばしば飛行機をぶつけて壊し、いつか大怪我をするぞ、と言われていた。それで搭乗配置を外され、軍令部に着任したばかりだったからである。

筆者が出会った元戦闘機搭乗員たち2。左上から時計回りに、宮崎勇少尉、大原亮治飛曹長、日高盛康少佐、長田利平一飛曹、橋本勝弘中尉、藤本速雄上飛曹

それからも何人かの士官の手相、骨相を見て、それがことごとく当たっていたことから、その場で水野の採用は決まった。

論文に書かれた操縦員適性の相とは?

水野によれば、操縦の適、不適の人の相には、統計的にみても一定の特徴があるという。その特徴を観相によって見分け、これを5段階に分類し、下の2段階の者を不適格とする方法で、選抜を実施していた。「観相」や「占い」という呼称では、海軍部内での説得力に欠けるということで、水野が確立した観相による適性検査は、「形態性格学」と呼ばれることになる。

「形態性格学」を利用した搭乗員選考は、学術甲、体格甲で、なおかつ水野が甲をつけた者を最優先するというものだった。

 

水野は、単なる「嘱託」という地位を受け入れ、搭乗員の適性検査のため、助手二人をともなって、全国いたるところに新設された航空隊を訪ね、多忙な日々を送った。太平洋戦争が始まって採用人数が急増すると、しまいには謄写版インクで取った手相まで見させられ、終戦までに23万名以上の搭乗員としての適、不適を判断した。海軍航空本部は、水野にちゃんとした官吏としての待遇を与えたかったが、大学文系卒の水野は法令上「技師」にはなれない。受け入れる側が、適当な肩書きを用意できなかったのだ。昭和17年、部内限りの奏任官(士官相当)待遇となり、終戦のときになってようやく、水野は「海軍教授」に任用された。

筆者が出会った元戦闘機搭乗員たち3。左上から時計回りに、角田和男中尉、原田要中尉、新庄浩大尉、柳井和臣中尉、小野清紀中尉、内藤祐次中尉


 
水野が書いた論文が、防衛省防衛研究所に残っている。

「昭和16年12月26日 操縦員適性検査ニ関スル相学的研究 海軍航空本部教育部 昭和16年」

と題したもので、内容は、観相学成績と卒業成績、航空事故との関係、各部位の形状と卒業成績、航空事故、機種別との関係などを、データを主に、グラフを用いて説明したものである。

その内容を一部抜粋すると、

1.前頭部 発達せし者……直観的判断良。成績良好なる者に発達不良の者多きも、操縦に起因する事故多し。
2.後頭部 突出せる者……鈍なれど確実。平坦なる者……敏感。左右高低ある者……技倆にむらあり。成績良好なる者に後頭左低の者多きも、操縦に起因する事故多し。
 左低の者……艦攻、陸攻。 右低の者……飛行艇。 突出せる者……戦闘機。 平坦なる者……艦爆。
3.眼瞼 一重、二重、左右不同とあり、左右不同の者は感情にむらあり。成績不良者に左一重多く、且操縦に起因する事故多し。
4.鼻骨 鼻骨隆起せる者……性急。成績不良の者に隆起する者多く、且殉職者多し。
5.拇指(親指)根 大なる者……作業力大、耐久力大。成績不良の者に小なる者多く、又操縦に起因する事故多し。

筆者が出会った元戦闘機搭乗員たち4。左上から時計回りに、中村佳雄飛曹長、進藤三郎少佐、藤田怡與藏少佐、吉田勝義飛曹長、伊藤清飛曹長、中島三教飛曹長

その他、水野による分析は血液型や掌紋などもふくめ多岐にわたるが、この四半世紀の間に筆者が出会った(ということは、戦争を生き抜いた)数百名におよぶ元海軍搭乗員の顔を思い返してみるに、確かに左右の瞼が不同の人、鼻骨の隆起していた人はほぼいなかったように思う。水野は、顔のバランスを特に重視していた。左右非対称の度合いが強い者ほど事故率が高く、適性に欠けるのだという。

終戦を予見した意外な根拠

昭和11年に100人だった航空事故による殉職者数は、水野が航空本部嘱託に採用された翌年、昭和12(1937)年には53名、13(1938)年79名、14(1939)年71名と、戦時で搭乗員の養成人数が加速度的に増えつつあったにもかかわらず、全体の割合は下がっている。その後、殉職者の人数は、昭和15(1940)年107名、16(1941)年165名、17(1942)年160名、18(1943)年308名、19(1944)年488名、20(1945)年611名とふたたび増加に転じるが、昭和11年、全部で300名ほどだった養成人数が、19年には18000名超と、じつに60倍以上に膨らんでいることを考えると、事故率は確実に下がっていると言える。

 

――もっともこれが、技術や訓練方法の進歩によるものか、水野の採用が功を奏したのかどうかは、なおも検証が必要だろう。ただ、養成すべき人数が増えると、多少危なっかしいと思われても採用せざるを得なくなってくる。水野が「飛行適だが事故を起こす可能性あり」と判定した者の名前にマークをつけて名簿を金庫にしまってあったが、その3分の2は事故で死んだという話も残っている。

水野のことを「なんだ、易者が」と軽視していたという今川福雄大佐は、戦況が悪化した昭和19(1944)年7月、トラック島の第九〇二海軍航空隊司令として南方に赴任する前、

「このときだけは気にかかったので、ついに彼に手相を見てもらいました。すると氏は長考の末に、『じつにめずらしい手相です。不死身の手相です。どうか自決だけはなさらないように』と注意してくれました」

と回想している。今川大佐はのち、戦地で編成された第九五五海軍航空隊司令となり、フィリピンの戦いで配下の飛行機を全て失ったのちはルソン島クラーク地区の山岳地帯で陸戦の指揮をとり、飢餓や風土病とも戦わなければならない極限の戦場で、米軍の大部隊に包囲されながらも終戦まで持ちこたえた。クラークに立てこもった海軍部隊は約1万5400名、うち生きて終戦を迎えたのは約450名にすぎず、指揮官のなかには自決した人もいるから、水野の予言と忠告は当たっていたと言えるのかもしれない。

米内光政海軍大臣、井上成美海軍次官のもとで、海軍省で先任副官を務めていた横山一郎大佐(のち少将)は、昭和20(1945)年4月、海軍大臣官邸に水野を招いたさいに、

「あなたはどこか海岸で生まれましたね」

と横須賀生まれであることを当てられるとともに、性格なども的を射た評を受けたことに驚いて興味を持ち、

「水野に、勉強したいから何か教科書を貸してほしいと所望したところ、英語の本を2冊持ってきた。易学は中国由来のものだとばかり思っていたから驚いた」

と回想している。井上成美中将(のち大将)も、水野に興味を持って手相を本格的に勉強し、次官室には手相学の分厚い洋書が置かれていたという。

横山一郎少将。昭和20年9月2日、米戦艦「ミズーリ」艦上での降伏調印式には、海軍を代表して参加している
井上成美大将。合理主義者だったが、手相を熱心に研究していた

水野は、太平洋戦争の開戦と終戦の時期も言い当てた。昭和16(1941)年、桑原虎雄に、「戦争は今年中に始まります」と予言した話が伝わっている。

「はじめは順調にいきます。あとのことはわかりませんが……」

理由を訊ねる桑原に、

「書類を持って歩いている軍令部の人たちの顔の相がどうもよくありません」

と、水野は答えた。そして4年後、沖縄も陥落し、本土決戦の掛け声が現実味を帯びていた昭和20年7月、軍需省で監理官になっていた桑原は、ふたたび水野に戦争の先行きを訊ねた。

「来月中に終わりますよ」

というのが、水野の答えだった。

「最近、特攻基地をひと回りしてきましたが、特攻隊の若い搭乗員で、死相が出ている者がきわめて少なくなりました。これは、戦争が終わる兆候でしょう」

8月14日、日本政府が連合国のポツダム宣言を受諾、降伏することを決定し、8月15日、国民に終戦を告げる天皇の玉音が放送されたのは、これまた周知のとおりである。

戦後は銀座で占いで身を立てる

終戦後、昭和20(1945)年11月30日をもって陸海軍が解体されると、「第二復員省」と名を変えたかつての海軍省のもとに、復員者や遺族援護の窓口として横須賀地方人事部東京支部が設立された。支部長は、昭和19年、大西瀧治郎中将率いる第一航空艦隊の先任参謀として、フィリピンで特攻作戦の中枢にいた猪口力平大佐である。

 

復員軍人、なかでも若くして海軍を志願した元将兵は社会経験がほとんどなく、たとえ飛行機の操縦が上手くても、大砲や機銃の射撃に通じていても、職業的なつぶしは全くきかない。猪口は、差し当たっての仕事や将来の進路について相談にくる復員者のために、週に一度、東京・芝の焼け跡の安蓮社というバラックのような小さな寺に水野を招き、「形態性格学」による進路相談会を行った。安蓮社の住職は猪口と旧知の間柄で、この寺では、平成17(2005)年まで「神風忌」と称する特攻戦没者の慰霊法要も営まれている。

戦後、第二復員省で水野を復員者の相談員に起用した猪口力平大佐

猪口大佐の手記によると、水野はすでに、昭和20年5月には、各地の特攻基地で死相の現れている者がいなくなったことから、どんな形にせよ、近く戦争が終わることは予期していたという。水野はまた、猪口に、

「終戦早々に大阪、東京などの都市を歩いてみると、大阪を中心にした関西方面の若者に、関東よりも活気の相が著しいから、日本の景気は関西の方から起こってくるでしょう」

とも言った。

その頃から水野は、司法省の嘱託となり、府中刑務所に通って犯罪者の人相を鑑定し、なかでも窃盗犯と観相の相関関係を研究。猪口大佐には「今後、少なくとも10万人ぐらいの受刑者と直接接したい」と意欲を語っていたというが、GHQの鶴の一声で免職となってしまった。

その後しばらく、水野は銀座に小さな和室のオフィスを構え、占いで身を立てていたらしい。終戦の数年後、元零戦搭乗員・坂井三郎(中尉。1916‐2000)が、東京・両国に新たに謄写版印刷の会社を設立するにあたり、大切な社名について相談しようと、3つの候補を持って、評判を聞いて知った水野のオフィスを訪ねた。

「かなり繁盛しているようで、先客が5~6人いました。呼ばれてふすまを開けて座ったとたん、水野さんは私の顔をじっと見て、『あなたは海軍の戦闘機パイロットですね』と言う。

私は操縦練習生の適性検査で水野さんのことを覚えているけど、水野さんにとっては23万分の1だから、びっくりしましてね。『その通りですが、どうしてわかるんですか?』と聞くと、『坂井さんと言いましたね。何期かは知らないが、私があなたの人相、骨相を見て戦闘機パイロットと決めたんですよ』。それに、『あなたは何度も死地に陥ったはずだが、なかなか死なないんですよ、そうなんですよ』……これには二度びっくりでした』

と、坂井は筆者に語っている。坂井が用意した3つの社名を見せたところ、「これがよいでしょう」と水野が選んだのは、坂井としても一番の候補と考えていた「香文社」だった。

香文社は、坂井が全額を出資し、終戦時、特攻隊員の後を追って自決した大西瀧治郎中将の夫人・大西淑惠を名目上の取締役社長、大西瀧治郎と親交のあった笹川良一を発起人代表として発足した。大西のクラスメートで、それぞれ特攻隊を出撃させた司令長官だった福留繁中将、寺岡謹平中将も発起人に名を連ねている。大西淑惠に社長就任を頼んだのは、淑惠が、坂井がもっとも敬愛する零戦隊の分隊長だった笹井醇一中尉(戦死後少佐)の叔母という縁があったことと、笹川良一や旧海軍の人脈で仕事がつながると考えたからである。

坂井三郎中尉。戦後の再出発にあたって、水野義人に会社の命名を相談した

水野はその後、銀座の小松ストアー社長・小坂武雄の知遇を得、その誘いで同社の社員採用を担当するようになり、小松ストアーが経営していた千鳥ヶ淵のフェヤーモントホテル(2002年廃業)の取締役、相談役を務めて、昭和47(1972)年、61歳で亡くなった。

おそらく日本海軍独特だった「人相見」による搭乗員の適性検査が、つまるところどういうものだったか。どの程度までが応用統計学で、心理学的要素をも含んでいたのかどうか、マジック的な要素はなかったのか、手相学にも骨相学にも疎い門外漢にはよくわからない。

しかし、凡人の日常においても、ときに人智を超えた何かの力を感じることはあるものだし、現に旧日本海軍で23万人もの搭乗員の適性検査に採用された事実がある以上、これをはなから無視したり、一笑にふすことはできないと思われる。