しかし、どんな経済も市場も、それを作ったのはどこかの誰かだ。だとすれば、むしろ経済は構想するものではないか。いわば工学としての経済学、製作する経済学だ。『経済学はむずかしくない』に致命的に欠けるのが、設計する想像力、実装する工作力である。実際、未来に向けた指針が語られるほぼ唯一の箇所が、こんな微温的リベラル調だ。
「経済のしくみを、こうして客観的に見抜いて、そのうえで自覚的な行動をするのなら、わたしたちは、『必然を洞察した自由』をもって、しくみそのものを、よりよいものへと変えていくこともできるでしょう」
(第2版 p.230)
世界像がない。指針がない。設計図がない。未来の予測がない。かといって過去の精密な検証もない。そうとも言えるがそうでないとも言えるかもしれない、批判はしないが提案もしない、なんとも生ぬるい文体が続く。
「個人の所得にしても、少ないよりは多いほうがよい、といえそうですから、国民所得もそうだろうと、かんたんに割り切る人があるかもしれません。もちろん、そういう考え方もありうるのですが、それに対する疑問点もあります」 (第2版 p.169)
経済はむずかしい
最新の希望は経済学とその外部の境目にある。ビットコインを構想したナカモト・サトシは9ページの論文で10兆円の新経済を創出。中央政府なしの経済という夢を具現化し、経済を分析するより変革するという経済学の古典的スタイルを再興した。
戦前の戦前、19世紀の政治経済学者の古典的スタイルだ。マルクスとナカモト、この2つの時代に挟まれて、観察し分析し語り合うことしかできなかった経済学の倦怠期がある。倦怠期の自画像が『経済学はむずかしくない』だ。
経済学はむずかしくない。そう強弁できるかもしれない。だが、経済はむずかしい。経済学から経済を物見遊山するだけでなく、経済という化け物から経済学を再構築することが必要なのだと思う。
この本にはいくつもの死が埋もれている。苔のむしたこの本は墓だ。私たちは「葬式のたびに進歩」(マックス・プランク)できるだろうか。答えは私たちのこれから次第だ。