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「社会構想なき経済学」はもう要らない… 生ぬるい教養新書に死を!

DIG 現代新書クラシックス (1)
成田 悠輔 プロフィール

「知識人」という恐竜

しかし、輸入知識人は死んだ。

何より、オシャレとしての輸入学問が途絶えた。日本が欧米に追いついて独自の学問が生まれたから? おそらくそうではない。輸入する余裕がなくなったからというのが実情だろう。

物価が欧米の半分になって外人スターの声と体を札束で買い叩くこともできず、現地派遣できる若者も激減。今日の日本では、知識とブランドの輸入は贅沢で、贅沢は敵だ。

国境をまたぐ日本人知識人も姿を消した。輸入しつづければ日本語化された離乳食的情報のぬるま湯に皆が慣れ、やがて輸入する体力もなくなるという予感はあった。そこに貧乏が来た。

論壇人たちが英語さえ満足に喋れず、ヨーロッパ語もまともに読み書きできず、かといってソフトウェアが書けるわけでも数学を使いこなせるわけでもない今日、もはや知識人というカテゴリーは意味を失ってしまった。

今日の日本でのメディア「知識人」は、滑舌と声が良く、話がわかりやすく面白い、ちょっと博識な一般人でしかない。そこには徹底した知の民主化がある。21世紀の戦前とでもいうべき空気が充満する今日の日本、しかしそこに戦前知識人の姿はない。

 

次の戦前に向けて

では、失われた戦前生まれ知識人を懐かしみたいのか? そうではない。むしろ日本の殻を破った彼らでさえ越えられなかった別の壁に光を当てることで、次の戦前に別の仕方で備えたい。

その壁とは何か?社会構想の死、経済構想の不在だ。

戦前の戦前、つまり19世紀から20世紀頭まで、かつて政治経済学者は既得権に抗して人々の権利と生活を勝ち取るビジョナリーで革命家だった。

彼らの構想は多くの実験共同体(コミューン)、いくつもの国家を作るまでに結実した。すべての革命家がそうであるように、彼らは人を救いもすれば殺しもしたし、別の既得権のお化けを生み出しもしたが。

今日の経済学者はどうか。誰も読まない論文を書いて同業者同士でディスりあったり褒めあったりしているか、審議会やメディアでおしゃべりの下請けをしているか。明らかな没落だ。

『経済学はむずかしくない』にもこの没落が映り込む。どこかの誰かに与えられた経済がそこにあり、それを解剖するのが私たちという構図。いわば理学(自然科学)もどきとしての経済学だ。科学になっていればいいが、ただのおしゃべりにも見えるのがたちが悪い。

その兆候が、経済の変化・動学への興味の薄さだ。この本で扱われる経済はいつも凍りついた標本のように静的で、経済学者はその標本をまじまじと舐め回すように眺め、理解したり論評したりしようとする。

しかし、現実の経済は標本箱を飛び出し空中を飛びまわる。狂乱物価に不動産バブルが続いたかと思いきや、いくら紙幣を刷っても物価がびくともしない三十年に突入したりする。経済の変幻自在に目を向けるなら、次の変化をどう生み出すかという問いにたどり着く。

この変化の問題に、かつてマルクス主義者たちは「唯物史観」という竹やりを持って突撃し、見事撃沈した。『経済学はむずかしくない』にいたっては撃沈すらしておらず、動きと変化を巧妙に回避する。マルクス主義よりずっと無害で良心的な雰囲気を醸し出しながら。