大往生もほどほどが肝心。娘夫婦と同居した祖母の不機嫌

父の介護、母の介護、私の老い方(8)
明治の半ばに生まれ、16歳で年の離れた男に嫁ぎ、29歳で末っ子の絹子を産んだ祖母。過去のトラウマで、子どもに愛情表現ができない夫との暮らしや、娘夫婦と一緒に住み始め、気まずい夕食を共にすることもあった祖母の輪郭を、芥川賞作家の荻野アンナさんが丁寧に描き出します。
 

16歳で嫁いだ悲しみ

私の祖母、荻野はまは、明治の半ばに明石の田舎で生まれた。はまの母親は姫路のお城に女中奉公に出ていた、と聞いている。

城仕込みの背筋がピンと伸びた女性だった。うちの母親が子どもの頃、その人の手を引いて歩いたところ、「ああ、わが孫なればこそ」と言われてキョトンとしたという。

厳格な母親に対して、父親のほうは、ぐずぐずだったらしい。嫁に来て3日で帰ると村では予想していたのが、結局そのまま居ついてしまった。

はまは自分が子育てをするようになって、この母親を反面教師にすることがあった。おやつも食事も、きょうだいへの配分はすべて平等で、お腹の空きやすいはまはつらい思いをしていたのだ。

はまのもうひとつの悲しみは、16歳で年の離れた夫のもとに嫁がせられたこと。まだ生理もない少女にとって、29歳の米蔵は、親しむには大人でありすぎた。

米蔵の側にも、新妻に胸襟を開けない過去があった。少年時代に年上の人妻にもて遊ばれて、彼女が生んだ子どもを背中にくくりつけたまま、鉄道の線路をあてどなく歩いたことがある。子どもは北海道へ引き取られていったそうだが、その先のことは分からない。

米蔵は今でいうポンプの製造業であった。実家から分家するにあたって、借金から始めた所帯だったが、夫婦の働きが繁盛をもたらす。

大家族の喧騒の中で

はまは死産を経て、ようやく得た長男を溺愛する。忙しさの中で、目が届くようにと、歩ける歳になっても負ぶっていたという。かえって抵抗力が弱くなったのか、赤痢のために4歳でこの世を去った。

やがて次男が生まれる。「おぎゃあ」のかわりにギュウ、と泣いて生まれたそうで、これは育たないと周囲に言われたのを裏切り、彼は90歳を超す長寿となる。

そして、長女、次女と女が続いた。次の妊娠は、お腹の子がやたらと元気である。今度こそ健康な男の子、という予想を裏切った末っ子が、わが母、絹子である。この時、はま、29歳。

幼少時の絹子は大家族の喧騒の中に育った。家族に丁稚小僧も加わって食卓を囲む。米蔵にだけは酒と肴が付いた。刺身や鮭缶で日本酒を二合、嗜んだ。子どもたちにとって酒は羨ましくもないが、肴のほうは羨望の眼差しで見つめている。

米蔵は過去のトラウマのなせる技か、子どもに愛情表現ができない。子どものほうも父親との距離を心得ている。母と絹子の母子密着はこの辺りに根を下ろしている。

次女の正子と絹子は二つ違いで、双子のように似ている。そのぶん喧嘩も凄まじく、一方が箒を取れば他方がハタキで応戦する。一度など、どちらかが包丁を手にして、さすがに相手の顔色が青くなったことがある。

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