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どんな年齢になっても安定なんて存在しない…老いてわかった現実

父の介護、母の介護、私の老い方(7)
将来が見えず、何者でもない自分を持て余していた思春期、大人になれば安定が待っていると思い込んでいた――芥川賞作家の荻野アンナさんが、容赦なく増えていく白髪や、不定愁訴のような体の軋み、大腸がん治療の経験を振り返りながら、身体的な老いと心との葛藤について語ります。
 

「私はそんな歳ではない」

先日、銀行で金融商品を勧められた。

「介護について、どうお考えですか?」

両親をすでに送った私に何を聞くのだろうと、最初は首を傾げていた。そのうち分かってきた。私が介護をされる側、という設定なのだ。

その金融商品は、月額いくらかを払い込むと、自分が要介護2になった段階で手当が降りる。要介護にならなかった場合は老後の貯金ということになる。

長い介護がようやく終わって、これからが青春と考えていたのだが、間をおかずに自分の介護の心配をしなければならないらしい。

両親が介護認定を嫌がった心境が少し分かった。「私はそんな歳ではない」という発想自体が老いの特徴かもしれない。

私の場合、重なる留学で、30歳まで学生だったから、社会人を始めた時点で若くはなかった。「おばちゃん」と子どもに声をかけられ、ショックだったのもこの頃だ。

結婚と出産のタイムリミット

教職という一生涯働ける立場をようやく手にいれてみると、もうひとつの目標である結婚と出産のタイムリミットが近づきつつあった。

当時は結婚クリスマスケーキ説が流布していた。女性は25歳を過ぎると、25日を過ぎたクリスマスケーキと同じで、さっぱり売れなくなる、というのだ。30歳からの私は、閉店間際の洋菓子店で、来ない客を待つケーキのような数年を経験した。

学生との年齢差は、この頃はさして感じずにすんだ。先輩で、ことさら若く見える男性教員がいた。この人など、初授業の時、最初は学生側に座っていたのが、就業のベルと共に教壇に上がって、学生たちをびっくりさせる、という特技を持っていた。

そこまでではなかったが、最初のうちは学生と話をしてもそのまま通じた。アダモのシャンソンを聞かせて、「フランスの森進一だよ」とコメントすれば皆がうなずいた。

いつ頃からだろうか。「森進一って誰ですか?」と返されるようになり、自分の歳を思い知らされた。

私は白髪の生えるのが早かった。

「あ、白髪」

同僚に指摘された。

「抜いてくれる?」

少し間があった。

「抜ける本数じゃないわよ」

その人は良い白髪染めがあるからと、慰めてくれた。

「こんな有り様でこの冬を越せるのだろうか」

白髪は容赦なく増え、それと比例して「仕事体力」は増えていった。仕事をこなすキャパシティ、と言い換えればよいだろうか。若い頃以上の無理が効き、徹夜の後で授業をこなしても翌日よく寝れば問題はなかった。

40歳ごろ介護が始まり鬱となるが、体の軋みを感じるのは45歳のあたりとなる。具体的な症状ではなく不定愁訴のようなものだった。

演芸場で立ち見をしていると、身の置き所がない。冬はストーブを抱くようにしても体の冷えがおさまらない。こんな有り様でこの冬を越せるのだろうかと、心細く思ったことを覚えている。

ちょうど古武術の甲野善紀先生と知り合う機会があり、正しい立ち居振る舞いを教えてらった。西洋式にいたずらに背中を反らせて立つのではなく、背中から足までを一本の線にして、頭が天井から吊るされ、浮いているイメージにする。

家でも特製の一本足の下駄を履いて、バランスを取りながら歯を磨いたりしていた。

その後はボクシングにも手を出し、思い切り汗を流したおかげか、50代半ばまでを一気に突っ走ることが出来た。

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