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昔は「死刑」だった…日本の政治家たちの「贈収賄」がなくならない「意外なワケ」

聖徳太子時代は重罪だったのに…

聖徳太子の時代は「重罪」だったが…

相変わらず、政治家による贈収賄事件がメディアを賑わせている。全世界的に見れば、日本は汚職が極めて少ない国に分類されるというが、一日本人としては、相対的な少なさをありがたがってなどいられない。贈収賄は汚職の代表格にして悪質な犯罪なのだから。なにより、贈収賄を必要悪及び伝統的美徳とする発想そのものを再考しなければならないのではあるまいか。

それを検証するには刑法の歴史を顧みればよい。最古の例は推古天皇の御代(在位592~628年)に聖徳太子こと厩戸皇子が制定したと伝えられる十七条憲法で、その第五条には贈収賄を厳しく非難する一節がある。当時から贈収賄が盛んであった証拠であると同時に、取り締まるべき重犯罪と認識されていた証拠でもある。

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十七条憲法には具体的な刑罰が盛り込まれていないが、701年8月に完成した日本初の律法典『大宝律令』には職制律という刑法が盛り込まれ、贈収賄罪は枉法罪という言葉で表現された。「枉」の字には「曲げる」という意味があり、汚職は「役人が法を曲げる罪」ということ。

課される刑罰は、収賄側は布一尺相当なら杖八十、布三十端(反)相当なら絞(死刑)とあり、杖八十は刑具の杖で背中を八十回打ち据えるというもので、江戸時代の百叩きに近い。賄賂を受け取りながら便宜を図らなかった場合は不枉法臓と言って、最高刑は流(流罪)ながら、重罪であったことに変わりはない。

ところが鎌倉時代に入り、武士の世の中になると、贈収賄に対する考え方が大きく変化していく。

鎌倉幕府の御成敗式目や江戸幕府の武家諸法度には賄賂に関する規定が盛り込まれず、それが明治時代の1881年まで続くことになる。この間、贈収賄に関しては大宝律令の職制律が生きてはいたが、朝廷の法令が及ばない武家政権のもとでは野放しに近いか、ときの権力者の意向に左右される傾向が強かった。