「安心安全」を求める主婦が「洗脳に弱くなってしまう」ワケ…実体験から考えた

「エホバの証人」元信者の考察
佐藤 典雅 プロフィール

そしてここが最大のパラドックスなのだが、クラシック音楽も宗教も、共に原本が存在しないのである。どういうことかと言うと、誰もキリストに会ったことはないし、誰もモーツアルトの音源を持っていないのだ。

例えばビートルズであればCD音源があるので、ビートルズの演奏を模倣する人たちはただのコピーバンドと呼ばれる。クラシックもモーツアルトの音源がでてきた瞬間、ただのコピーバンドに格下げされるだろう。

同じようにどのクリスチャンもイエスに会ったことはないし、そもそもイエスは聖書を一文字も書いていない。だから原本が存在しない以上、誰がイエスに一番忠実かという議論そのものが不毛である。

誤解しないでほしいのが、別に私はキリスト教やクラシック音楽を否定しているのではない。ただ単に、「答えのないものは学問として永続する」ということを言いたいだけである。

 

個人的には、キリスト教にもクラシック音楽にもそれぞれの存在意義があると思っている。ただしそれらが絶対的な答えを持っているわけではない。

これらと同じ構造で、オーガニック野菜、玄米、高価な浄水器、サプリなどへの絶対的な信頼感といった答えがないものは宗教化しやすい。というか逆に言えば、答えが出てしまうものは宗教として存在できない。なぜなら最初から信じる必要すらないからだ。

そして私が扱っている発達障害の分野でも「療育」という名という“宗教論争”が起きている。エホバの証人の洗脳から抜け出した私が福祉に入って、お母さんたちの療育に対する絶対的な信頼感を解く仕事をしているのは、誠に皮肉というか因果だとしかいいようがない。

人生の指針を丸投げすれば必ずなにかの奴隷になる

面談にくるお母さんたち話していてよく話題に出る事柄のなかに「幸せ」と「愛」というキーワードがある。

しかし、この二つの言葉は実はとても抽象的な概念でしかなく、方程式でいう「x」と同じである。彼女らはこの言葉を具体的に定義しないまま悩むスパイラルにはまってしまう。「私は愛されているのか? 私は幸せなのか?」この問いかけに対して、おそらく答えは出ないだろう。

「ここに行けば幸せになれる」という境界線なんてものはないし、愛の感じ方だって人それぞれだ。この「x」に関する答えがそこらへんに転がっているわけがない。だからこの問いかけを投げかけられた夫や友人は無言になってしまう。

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