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# 社会性の起原

中動態としての言語

「社会性の起原」85

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。これまで講談社のPR誌『本』に掲載されてきましたが、85回目となる今回からは、場所を現代ビジネスに移して問いを深めていきます。

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二律背反の問い

人間とは何か。この問いをめぐって探究を続けている。だが、この問いには、最初から、二律背反(アンチノミー)が仕組まれている。

今日、われわれすべてが信頼している唯一の知は、自然科学である。自然科学に従えば、問いに対してはこう答えるほかない。人間は動物(の一種)である、と。このような理解の中では、人間について何が説明されるのか。まず、ホモ・サピエンスの個体の中で、どのような物理・化学的な因果関係の連鎖が生じているのかを記述することになるだろう。もっとも、これだけでは、一般の物理・化学現象と異ならず、動物(生物)としての特徴はどこにも入ってはいない。さらに、個体において見出された物理・化学的な因果関係からなるメカニズムが、遺伝子の(拡大)再生産にとって、どのような意味で有利だったのかを特定すること、そうするとその動物を進化の中に位置づけたことになる*1

これが、生物学がなしうることのすべてだ。だが、これでは、人間とは何か、という問いが発せられたときの疑問の深度に十分に応じた答えが得られたことにはならない。人間なるものの本質への問いは、人間が(他の)動物以上の何かであること、人間が動物性に還元し尽くせないことへの直観からこそ来ているからだ。これは、学問の領域にだけ関わる問題ではない。われわれの生活のすべて、われわれの実践のすべてが、人間が、動物以上の存在であることを前提にしている。たとえば人は、自分や他人を道徳的に責めたり、誰かの責任を問うたり、ある行為は自由な選択に基づいていると考えたり、個人の尊厳を大切にしようとしたり、人権の否定を問題にしたり、する。これらはすべて、人間が動物以上の何かであることを前提にしている。その何かとは何か。人間を、ホモ・サピエンスという動物としてだけ記述したとき、問いの核心部分が雲散霧消している。

近代科学よりも広い知の領域にまで視野を広げれば、人間のこの「動物を超える部分」を規定しようとする試みはあった。哲学は、人間を「動物を超える部分」によってこそ定義しようと試みてきた。たとえば、(動物は感覚的だが)人間は理性的である、人間は政治的動物である、人間だけが世界をもつ、人間は約束する、人間は死を知っている、人間は自由へと呪われている、等々。人間のこうした把握は真実への直観を孕んでもいるが、同時に、科学的な支持を欠いた概念を用いることで、形而上学的な蒙昧に近づいてもいる。

結局、「人間とは何か」は、問いそのものの中に二律背反を予定している。人間は(一種の)動物である。しかし人間は動物ではない(動物以上の何かである)。矛盾したこれら二つの命題をともに満たさなければ、この問いへの満足のいく回答にはなりえない。われわれが挑戦してきた探究は、この難問に答えることである。主として、動物(生物)についての経験科学の成果に依拠しつつ、動物を超えている(ように見える)人間の人間たる所以もまた説明すること。動物的であることそのものから生ずる内在的な余剰のようなものとして、人間的であることを説明すること。

 

「人間の条件」としての社会性

ここまでの探究の中で明らかになっていることは、「人間的であること」のほぼすべてが、人間に固有の社会性に由来する、ということである。社会性をもつ動物はホモ・サピエンスだけではない。だが、人間たちの集合にのみ見られるタイプの社会性——これを〈社会性〉と表記する——がある。「人間とは何か」をめぐる探究は、結局、人間に固有な社会性の起原を問うことに集約される。〈社会性〉とは何であり、それはいかにして可能だったのかを説明することに、である。

人間性は、人間固有の社会性の問題に還元できるらしい、と結論するに至った根拠をここに詳しく再論することはできない。そうかもしれないという見通しをもつことができるような事実を、少しだけあらためて論じておこう。

他の動物と対比したときの人間の特徴は高い知能にある、と一般には考えられている。人間は大きな脳をもち優れた知能を有する、と。しかし知能とは何であろうか。百人余りの二歳半の人間の子どもと百頭を超える大型類人猿(チンパンジーとオランウータン)の両方に同じ知能テストを実施し、その成績を比較した有名な実験がある。その結果は驚くべきものだ。ほとんどの問題で、人間の子どもと大型類人猿の間で成績の差がなかったのだ*2。空間認知に関しても、数量概念をめぐる問題に関しても、因果関係の把握に関しても、人間の幼児の成績は、大型類人猿の成績とほぼ等しかった。