赤穂浪士討ち入りの理由は「忠義」じゃない? 実は誤解だらけの「忠臣蔵」の真実

当時は武士の間で「殉死」ブーム
加来 耕三 プロフィール

武士の間で「殉死」ブーム

そもそも「かぶき者」は戦国時代、合戦での勝利を唯一無二とした、武士のアイデンティティから派生したもの。勝つためには己れの生命、財産、その他あらゆるものを放棄しても、決して悔いることのない精神である。そのため、合戦のない泰平の世となると、戦場一途の武辺者はその存在意義を失ってしまう。

その彼らの起こしたブームが「殉死」であった。この「殉死」――不思議なことに、軽輩ほど殿さまへの殉死をしたがる傾向が強く、ここには一種の自己陶酔の世界すら、かいま見えた。

 

だが、寛文3年(1663)、4代将軍家綱が「殉死」の禁止を制度化し、5代綱吉も禁止を「武家諸法度」に加えた。

家臣が「殉死」すれば、お家断絶に処する――とおどしたおかげで、「殉死」は消えたが、「かぶき者」の気質を脈々と伝えてきた武士は、「殉死」への思いを捨て去れずにいた。

主人片落(不公平)に切腹仰せ付られ、上野介存生においては、城滞りなく引き渡し、何方へ面を向け申すべき様もこれなく候(中略)一分立ち候様に仰せ付けられ、筋も立ち候はば各別の儀、もし拠なき道理出来候はば、当城罷り出るにおいては、内匠頭菩提所花岳寺において、志の面々追腹仕るべく候。(『堀部安兵衛覚書』)

これは赤穂浪士の一人、安兵衛の言葉だ。不公平な幕府の裁定をそのままに、城を明け渡しては何処にも顔向けができない、と彼はいう。もし、「一分」が立てばよいが、さもなくば追腹=「殉死」をするしかない、と。

逆にいえば、安兵衛にとっては純粋に主人の仇を討つのが主題ではなく、自分たちが世間に顔向けのできる「一分」を手にすることの方が、重大事であったわけだ。

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