赤穂浪士討ち入りの理由は「忠義」じゃない? 実は誤解だらけの「忠臣蔵」の真実

当時は武士の間で「殉死」ブーム
加来 耕三 プロフィール

違和感のある47人のメンバー

たとえば、当時、赤穂藩(家中270余名)を統率していた4人の家老のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助だけ。また、家老の下にいた5人の組頭は、全員、吉良邸へは推参していない。

つまり、上級藩士の討ち入り参加者は、“家老”の内蔵助ただ一人だけであったことになる。

次いで、赤穂浪士の主力ともいうべき馬廻りクラスはどうか。吉田忠左衛門兼亮(郡代、物頭兼任・63歳)、原惣右衛門元辰(足軽頭・56歳)をはじめ、計19名(部屋住みを含む)が参加していた。

彼らは戦場において、主君の馬を守るのが役目である。したがって、これはうなずける。

長年にわたり歌舞伎でも演じられきた「忠臣蔵」/photo by gettyimages

ところが腑におちないのが、彼らとは別に、まとまった人数を出したのが中小姓をはじめとする、身分の低い切米取りの軽輩の人々であったことだ。大高源五忠雄(32歳)の20石五人扶持から、3両2分二人扶持の足軽・寺坂吉右衛門信行(年齢は諸説あり)を入れて18名。彼らは藩主内匠頭の顔も、声すら聞いたことはないはずだ。にもかかわらず、仇討ちに参加している。

 

「だからこそ彼らは、忠義の士なのだ」といったのが、これまでの一般の声だが……。本当にそうだろうか?

彼らは揃っては、50年前の世にあふれていた「かぶき者」の生き残りであった。「侍道」の勇気を重んじ、「一分(いちぶん)」の体面に生命(いのち)を賭け、売られた「喧嘩」は買わぬことのない人々。封建制の主従関係からは逸脱した、異質な感情を持つ人々であったといってもよい。

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