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赤穂浪士討ち入りの理由は「忠義」じゃない? 実は誤解だらけの「忠臣蔵」の真実

当時は武士の間で「殉死」ブーム

一般的には美談ではあるが…

赤穂浪士の討ち入りは、“武士道の華”ともてはやされ、日本人の美学を代表するように、21世紀の今日まで語り継がれて来た。だが“忠臣蔵”の系譜は、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以来の文学の流れであって、もとより史実を伝えたものではなかった。

なかでも史実と異なるのが、「忠義」=「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」が、実は“世間”に対する自らの面子を立てるための行為であったことだ。

 

元禄14年(1701)3月14日、朝の9時半ごろ、江戸城松の大廊下で、赤穂藩主(5万3千石)で勅使饗応役を拝命していた浅野内匠頭長矩(35歳)が、その作法の師ともいうべき高家筆頭の吉良上野介義央(61歳)に、「このあいだの遺恨覚えたるか」といきなり脇差を抜いて斬りつけた。

初太刀は額へ、そして右肩先から下へ二太刀目――そこへ、大奥の留守居番役・梶川与惣兵衛が駆けつけ、内匠頭に飛びついて抱きとめ、事件はこれ以上には大きくなることはなかった。

だが、場所柄もわきまえず刃傷に及んだ内匠頭は、即日、切腹。家は改易(お家取り潰し)となった。一方、負傷した上野介は何らの咎めもなく、ときの五代将軍・徳川綱吉からはお褒めの言葉までかけられた。

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赤穂藩の筆頭家老(1千500石)であった大石内蔵助良雄(43歳)が、46名の旧藩士と語らい、吉良邸に討ち入ったのは、それから約1年半後の12月14日のことであった(上野介の首級を挙げたのは、翌12月15日)。

多くの小説の類は、これを主君の仇を報じた美談だと描いてきた。

しかし、四十七士の内訳を見てみると、不思議な現実に幾つも出くわす。