200年前の名著、ヘーゲル『法の哲学』を「今」読むべきワケ

近代社会の「原理」とは何か?
竹田 青嗣, 西研 プロフィール

ラッセルの見当違いなルソー批判

その代表格であるバートランド・ラッセルの批判を確認しよう。彼はいう。《現在では、ヒットラーはルソーの帰結であり、ルーズヴェルトやチャーチルはロックの帰結である》(『西洋哲学史2』(ラッセル、市井三郎訳、みすず書房、628頁))。驚くべき誤謬に満ちた批判といわねばならない。

バートランド・ラッセル(Photo by gettyimages)

ロックはルソーとともに「万人の自由」の解放の考えにもとづく社会契約論を提示した。しかしその理論の基礎は、いわゆる「天賦人権論」であり、神によって所有権の正当性を与えられた市民たちの連合による、王権への抵抗権を根拠づけるものだ。

しかしこれは王権神授説への対抗イデオロギーにすぎず、哲学的には、キリスト教圏以外では妥当性をもたない・・・・・・・・・・・・・・・・・・ローカルな理論にすぎない。ルソーに対するラッセルの無理解はいたるところに見出せる。二つだけ重要な点を挙げよう。

ラッセルはいう。ルソーの「一般意志はつねに正しい」という言い方はきわめて不明瞭だが、おそらく「私利の最大の集団的満足」を代表するということだろうと。明らかな誤読である。「一般意志」の中心的意味は明らかで、二点ある。

 

最も正統的な民主主義的統治の原理

第一に、王権による絶対支配を排して市民の対等な権限による統治権力(人民主権)によって社会を営む、という成員全員のはじめの意志(初期契約)。第二に、それゆえ政府の法と施策は、この「全員の意志」(「一般意志」)を代表せねばならない・・・・・・・・・、ということである。

ラッセルは、ルソーの「一般意志はつねに正しい」という言葉を捉えて、ルソーはつまり「国家権力はつねに正しい」と主張しているという。驚くべき顚倒である。ルソーの意は、「一般意志を代表しないかぎり・・・・・・・・、統治権力はその正当性を失う」、ということ以外にはありえないからだ。さらに、つぎのような荒唐無稽の批判が現われる。

ルソーはいう。「一般意志」がみずからをよく表現するには、《国家の内部に部分的な社会が存在しないことが必要であり、またすべての市民が自分だけでものごとを考えることが肝要》である。

これに対するラッセルのコメント。国家がそのような体制をもてば、実際に生じるのは、国家による教会や政党や労働組合などの団体や結社の禁止であり、結果「全体主義的な国家」が現われるだろう、と。

ルソーの意は、「一般意志」の定義からして、疑いの余地のない明瞭なものだ。すなわち、もし国家が、多数者部分と少数者部分に固定的に分割されるなら、国家の統治は、多数派と少数派の特殊利害どうしの対立となり、「一般意志」は代表されなくなる(たとえば、一国が、カトリック派とプロテスタント派に分かれれば、多数者の利益だけがつねに政治的に代表されることになる)。民主主義の政治において、宗教を公的な基軸とする政治党派が禁じられるのはそのためだ。

ラッセルに類似するルソー批判(全体主義の危険をもつといった)は多く存在したが、その動機はいまでは明らかである。20世紀の社会思想において、「反国家」「反権力」はその最大のキーワードだった。多くの理論家にとって、「一般意志はつねに正しい」というルソーの主張は、国家は一般意志を代表するという言葉とあわせて、「国家権力」の絶対的な擁護、あるいは国家至上主義を意味するものと見えたのだ。

だがわれわれは、ルソーの理論こそを、最も正統的な民主主義的統治の原理として捉えるべきだ。ルソーの「社会契約」の原理だけが、「普遍ルール社会」(=一切を対等な権限をもつ成員の合意によって決定する、フェアなルールによる社会)という概念の中心的本質を表現しており、他のどんな哲学的理論もこれを超える原理を示してはいない。

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