歴史学者・呉座勇一が深く探究「北条義時は何をしたのか?」

鎌倉幕府成立年論争は些末なこと
呉座 勇一 プロフィール

源頼朝は朝廷からの独立を目指したか?

以上、長々と説明してきたが、実のところ、このような成立年論争にいかほどの意味があるのか、私はやや疑問を抱いている。

こういう議論の立て方をすると、どうしても「武家政権発達史」のような見方になってしまう。源頼朝を鎌倉殿と戴く東国武士たちが「武士の、武士による、武士のための政治」を実現するために、朝廷から権限を一つひとつ獲得し、幕府を一歩一歩成長させていった、という理解である。

 

そうした直線的、不可逆的な発達史観は後世から見た結果論的解釈にすぎない。前述した通り、文治勅許の獲得は一義的には源義経対策である。寿永二年十月宣旨獲得も、木曽義仲対策という性格が強い。あくまで内乱を勝ち抜くための施策であり、武家政権樹立のための布石では必ずしもない。

そもそも源頼朝に朝廷からの自立という明確なビジョンはあったのだろうか。

奥州藤原氏を滅ぼした後の1190年、頼朝は初めて上洛し後白河法皇とも対面している。この上洛時に頼朝は権大納言・右近衛大将に任官するが、鎌倉に戻る前に両官を辞している。

源頼朝像(冷泉為恭模 江戸時代・19世紀 東京国立博物館所蔵)

これを朝廷から距離を取る頼朝の独立志向と捉えるのが古典学説である。

しかし頼朝は「朝の大将軍」と称し、朝廷を守護する軍事指揮官を自任していた。頼朝は辞任後も「前右大将」と称しているので、「王朝の侍大将」と見られることを嫌ったとは考えられない

東国武士を軍事基盤とする頼朝は(少なくとも現時点においては)鎌倉を拠点としなければならず、天皇の側近くに仕えなければならない両官を辞したというのが実態である。

朝廷を支え、後ろ盾にしていた

良く知られているように、晩年の頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇の后にすべく、入内工作を行っている(ただし失敗に終わった)。天皇の外戚になるという平清盛同様の貴族化路線について、かつては老いた頼朝の失策と評価する向きがあった。

けれどもこのような見方は、「もともと頼朝は朝廷から自立した武家政権の確立を目指しており、また目指すべきである」という先入観に基づき、耄碌して当初の目的を見失ったと批判するものである。

頼朝は一貫して、朝廷を支えると共に、朝廷の権威を後ろ盾に武士たちを統制している。大姫入内工作は、自身の地位を確立し子孫に継承させようとする頼朝のこれまでの行動から導き出される必然的帰結であり、決して変節ではない。

では、武士たちは以上のような頼朝の姿勢をどう見ていたのだろうか。

彼らは「武士の、武士による、武士のための政治」を望んでいたかもしれない。しかしながら、それは漠然とした願望にすぎず、実現するために具体的に何をすれば良いかを理解していたとは思えない。

周知のように、頼朝麾下の東国武士でさえ勝手に朝廷から官位をもらい、頼朝に激怒されている。頼朝死後は朝廷官位を求める動きが顕在化する。

彼ら東国武士が朝廷からの自立を希求していたとは考えられず、また「頼朝の貴族化」に不満を持っていたと見ることも困難である。

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