歴史学者・呉座勇一が深く探究「北条義時は何をしたのか?」

鎌倉幕府成立年論争は些末なこと
呉座 勇一 プロフィール

守護・地頭の設置が認められた年

では「イイハコ」とは何か。これは1185年のいわゆる「文治勅許」を意味する。

教科書的な説明を以下に掲げる。文治元年(1185)に平家一門が滅亡すると、源頼朝と弟の義経は対立を深めていった。後白河法皇は義経の求めに応じて頼朝の討伐を命じた。しかし義経はあまり兵を集めることができず、京都から逃げ出した。

後白河法皇はあわてて頼朝追討命令を撤回し、義経を朝敵(朝廷への反逆者)と認定した。しかし頼朝は自分への追討命令が出たことに激怒し、北条時政に千騎の兵を預けて京都に派遣し、朝廷の責任を厳しく追及した。

 

そして義経の捜索・逮捕のために守護・地頭を諸国の荘園・公領に置くことを朝廷に認めさせた。これを「文治勅許」という。高校ではこのように習ったはずだ。

守護・地頭制度は鎌倉幕府の全国支配の根幹である。よって、守護・地頭の設置を朝廷から認めてもらった1185年を幕府の成立年とみなすのが「イイハコ」説だ。

源義経と弁慶(国立国会図書館所蔵)

しかし文治勅許に関する同時代史料は乏しく、実のところ、この時に頼朝が獲得した権限の内容は明瞭でない。

確かに鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』は、守護・地頭の設置が認められた、と記している。だが『吾妻鏡』は100年以上後に成立したので、その記述を全面的に信じることはできない。少なくとも、この時点で「守護」という役職が成立していなかったことは歴史学界の共通認識である。

同時代史料である九条兼実の日記『玉葉』などによれば、文治勅許の骨子は、

1.五畿内・山陰・山陽・南海・西海諸国を頼朝配下の武士たちに分け与える
2.荘園・公領の区別なく諸国で段別五升の兵粮米を徴収することを頼朝に対して認める
3.諸国における田地知行も認める
4.諸国在庁・荘園下司・惣押領使の人事権を頼朝に対して認める

といったものだったらしい。

「イイハコ」説も絶対ではない

以上の記述は非常に簡略かつ曖昧である。諸国(東海道・東山道・北陸道は既に頼朝の勢力圏である)を武士たちに分け与えると言っても、日本中の全ての土地を与えるという意味であるはずがない(それでは公家や寺社の土地がなくなってしまう)。

「田地知行」も同様で、具体的にどのような権利を得たのかが明確でない。このため、頼朝が手にした権限が何であるかについては、学界では古くから論争がある。

仮に、文治元年に頼朝が獲得した権限が非常に広範なものだったとしても、それがそのまま永続的・安定的な支配体制としての守護・地頭制度につながるわけではない。

この時に頼朝が獲得した権限は、あくまで義経追討のための時限的なものである。義経の脅威が低下すると朝廷は巻き返しを図り、地頭の設置範囲は限定されることになった。

そもそも頼朝勢力は源平合戦の最中から地頭を独自の判断で設置しており、文治勅許によって初めて「地頭」が生まれたわけではない。だから「イイハコ」説も必ずしも唯一絶対の説とは言えない。現行の歴史教科書で「1185年に鎌倉幕府が成立した」と明記するものはない。

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