よく知られる詭弁の一種に「本物のスコットランド人はそんなことしないNo true Scotsman 論法」というものがある。これはおおむね次のようなものである。
Aさん「すべてのスコットランド人は勇敢で忠誠心が高いものだよ」
Bさん「でもCはスコットランド人だけど、このまえ敵前逃亡したっていうじゃないか」
Aさん「そんな奴は本物のスコットランド人ではないのさ」
この論法が詭弁とみなされる理由は明らかだろう。BさんはAさんの主張「すべてのスコットランド人は……」に対して反例を出した。しかし、Aさんは「本物の」という修辞を恣意的かつアドホック(後付けで)に使用することで、自説を守ろうとするのである。Twitterなどで、自説に不利なものを恣意的に例外扱いすることを「切断処理」と呼んだりするが、それと同じようなものだ。
しかし、この論法とその例はたんに議論上のルール違反であるだけでなく、どこか不穏である。ことに政治的な問題についてこのような論法の多用は、私たちの共同体を分断へと導くのではないか。
昨今の政治についてなにか言及しようとするとき、分断あるいは分裂という言葉なしで語ろうとするのは難しい。アメリカの大統領選挙にせよ、大阪都構想についての住民投票にせよ、それらはある共同体のメンバー同士の分裂や対立を可視化するだけでなく、それらを一層深めるものであるという見解が出される。日本学術会議への人事介入は学者とそうでない人、あるいは学者同士の分断を狙ってのものだと言われる。
しかし、そもそもそのように否定的に語られるときの「分断」とはなんだろうか。そしてその反対を意味する「統合」とはなんだろうか。