真珠湾攻撃で第二次発進部隊制空隊指揮官を務めた進藤三郎さん。左/昭和17年11月、ラバウルへ発つ直前、東京駅にて。右/平成8年、自宅にて(右写真撮影/神立尚紀)

真珠湾攻撃で零戦隊を率いた指揮官が語り遺した「日本人不信」の理由

「あれが犬死にだったというのか」

圧勝した零戦デビュー戦を指揮した戦闘機隊隊長

私の手元に、古ぼけた書類の束がある。「軍機」の朱印が押された『機密第一次發進部隊命令作第一號』に始まり、計162頁にわたって真珠湾攻撃の作戦実施計画を詳細に記した、旧日本海軍の最高機密文書。――本来、世に出るはずのなかったこの極秘文書を保管していたのは、当時、空母「赤城」第八分隊長(戦闘機)で、79年前、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃では第二次発進部隊制空隊(零戦隊)指揮官として、零戦35機を率いて出撃した進藤三郎大尉(のち少佐。1911-2000)である。

進藤さんが保管していた真珠湾攻撃に関する機密書類。最高度の機密を表す「軍機」の印が押されている

進藤さんは、真珠湾攻撃の前年、昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零戦13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機との空戦で27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機、戦死10名、負傷8名)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を指揮したことでも知られる。

昭和15年夏、揚子江をバックに飛ぶ零式艦上戦闘機一一型
昭和15年9月13日、零戦の初空戦を終え、漢口基地に帰還した進藤大尉。後ろで腰に手を当てているのは大西瀧治郎少将(のち中将)
昭和15年9月13日、零戦の初空戦を終え、漢口基地で報告する搭乗員たち。周囲に人の輪が広がっている。整列する搭乗員の左端が進藤大尉

零戦の戦いの幕を開けた進藤さんは、戦争を生き抜き、戦後も長命を保ったが、戦記に必ずその名が登場する著名な零戦隊指揮官でありながら、本人が長く沈黙を守ってきたこともあり、その実像が知られることはほとんどなかった。

ところが、進藤さんと海軍兵学校同期で、同じく零戦隊指揮官だった鈴木實さん(戦後、キングレコード常務。1910-2001)と出会い、インタビューを重ねるようになったことがきっかけで、思いがけず進藤さんに会ってもらえることになったのだ。

「彼はぼくの無二の親友で、操縦の腕もよかった。何といっても零戦初の空戦と真珠湾の制空隊を指揮したんだから、会っておいた方がいい。紹介してあげるから広島に会いに行きなさい」

鈴木さんはその場で進藤さんに電話をかけてくれた。

「進藤か。貴様の話を聞きたいっていう若い人が来てるから紹介する。よろしく頼む」

約15秒、話はそれだけである。海軍兵学校のクラスメート同士は、何歳になっても「俺、貴様」と呼び合う。海軍では万事、用件は簡潔に伝えることがよしとされていた。若き日の習慣が染みついていて、電話で長話をすることなどまずないらしかった。

平成9年4月、海兵60期クラス会のため上京、東京・原宿の水交会前で。左は同期生・鈴木實さん夫妻、右が進藤さん夫妻(撮影/神立尚紀)
 

「やあ、いらっしゃい」

午前11時、広島駅からタクシーに乗って到着した私を、進藤さんは玄関先で出迎えてくれた。平成8(1996)年8月下旬のことである。進藤さんは、穏やかな風貌と、飄々とした話しぶりが印象的な人であった。

「これまではやむを得ない場合のみに、聞かれたことだけ答えてきましたが、今回は鈴木からの紹介だから、心を開いて話をしましょう」

広島市皆実町の進藤さん方の庭には、高さ3メートルほどの木が植わっていて、八重咲きの、拳ほどの大きさの白い花をいくつもつけている。

「これは酔芙蓉(すいふよう)と言うて、朝、白い花が咲いて、それが夕方になると赤くなる。酒に酔うみたいじゃ、言うんで酔芙蓉と名づけられたらしいです」

酔芙蓉の下には、早くも萩が薄紫色の可憐な花を咲かせている。――以後8回、40時間にわたる進藤さんへのインタビューは、そんなふうに始まった。

平成8年、進藤氏の自宅にて。庭には酔芙蓉と萩の花が咲いている(撮影/神立尚紀)