「批評」の終幕と「小説」の到来ー文芸批評家・佐々木敦の軌跡

「小説」はとつぜんやってくる
佐々木 敦 プロフィール

「小説」がやってくる

なんだかややこしいことを言っているようだが、実際には私は、さまざまな書物やその他の表現を手掛りというか扉として、こうした問題についてつらつら考えながら、この本を書いていった

 

たとえば、ボルヘス、高山羽根子、ウィトゲンシュタイン、円城塔、磯﨑憲一郎、保坂和志、クァンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル、アリ・スミス、ドン・デリーロ、筒井康隆、ゴダール、山下澄人、セザンヌ、ロラン・バルト、等々。

もともとは「群像」に連載したものなので、私の過去の本と同様に、長編論考でありながら、その時々にふと思いついたことや、たまたま遭遇した出来事が、勝手に理路に入り込んできてしまい、書いてる私自身、その無軌道で野放図な運動に、時に翻弄され、時に思いも寄らぬ方向を指し示されながら、まるで迷路を彷徨うように、未知の異国を旅するように、しかしどこかでまぎれもない確信を抱きつつ、この本を書き終えたのだった。

その確信とは、こうしているうちに、やがて遂には「小説」がやってくる、必ずそれは訪れる、というものだった

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その「到来」が、どのようなものであるのかは、是非、実際に読んで確かめていただきたい

『それを小説と呼ぶ』の「それ」とは何なのか? 言葉を尽くしたからといって完全に明らかになるわけではないが(そもそもそういうものではないが)、私は確かに「それ」を目の当たりにしたと思う。だから私は、この「第三の主著」に、たいそう満足しているのである。

さて、第三の、のみならず「最後の」というのも大袈裟に言っているのではない。

「文芸批評」というジャンルでの私の仕事は、これをもって一区切りにするつもりでいる。もちろん書評や単発の評論などは今後も書いていくだろうが、『それを小説と呼ぶ』の刊行をもって、私はいよいよ今後、広義の「創作」に軸足を移してゆく心算でいる。何故と問われたら、こう答えよう。だって仕方がないではないか。なにしろ「小説」がやってきてしまったのだから

(ささき・あつし)